月別アーカイブ: 2017年7月

沖縄の女性 機敏に動く看護婦 水浸しの洞くつで

 この洞(どう)穴には、女性たち―看護婦、新城女子青年団員、県立第二高女生十五人―がいた。

 みんな油煙で真っ黒。手足、顔、衣服を洗う暇がない。包帯交換、看護、食事分配、その他雑用に、不眠不休でかけ廻っている。

 藤沢軍曹は、よく働く、かわいらしい女学生大城フミさんと看護婦の大平さんを記憶している。ふたりの生死を、手記のなかで心配しているが、大城フミさんは、戦記第百十三回の写真あ(糸満町国吉=旧高嶺村=白梅之墓の碑面)にその名前が刻まれている。きっと、二十年六月二十日、この碑のわきの洞穴内で、同級生といっしょに手りゆう弾で自決したのだろう。感謝の念をこめ、ここに、ごめい福を祈る。

 看護婦の大平さんはどうしたか―この戦記は沖縄へも送っているので、大平さんのその後の消息がわかることを念じ、藤沢さんの思い出をつづる。

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 二十年五月二十二日から六月五日にかけ、沖縄の降雨量は一三○㍉を記録している。連日、ひどい雨だ。

 遂に新城野病の洞穴の下を流れている川があふれ川が洞穴へ流れ込み、二号病室の患者の寝台が水びたしになりはじめた。

 あわただしい看護婦たちの叫びで駆けつけた軍曹は事態を知った。衛生兵たちが、それぞれ重傷患者を背負い、大いそぎで一号病室へ移している。

 このとき、衛生兵たちにまざり、一人の女性が重傷患者をかるがると背負い、すばやい動作で走り去ってゆくのを見た。足もとを見ると、はだし。からだも大きいが、女にはめずらしいフアイトと力量の持ち主だ。軍曹はおどろきけ衣服した。その女性が看護婦の大平さんで、名前を忘れたのが残念である―と書いている。

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 ことし二月末、沖縄から帰ってくると、社の悪童連から『沖縄の女性はどうだった?』と、こっそりきかれた。無責任な週刊誌情報の中毒症状治療の一ッ助にもと、社報に『つやだね・オキナワ』を書いてご報告申しあげたが、沖縄女性を象徴するものは、なんといっても、ひめゆりの塔、白梅の塔だと思う。

 むかし、陸軍幹部候補生の問題集に『心中は、りっぱなことである』と心中肯定が正解になっているのを見て奇異の感にうたれた記憶がある。こんどの戦争では、沖縄女性が兵隊の切り込み戦に進んで一員として参加し、戦死している。積極的な特攻的行動をとらない者でも、”兵隊さん殺して”といっしょに死ぬことをたのみ、死を共にしている例が多い。

 心中を日本婦人の正しいあり方とするなら沖縄女性は、代表的な日本女性といえよう。

 懐疑派ムードの当今、この事実もまた、ウラからみ、ヨコから見る必要があるのかもしれない。しかし、タンスの底から軍用通信紙に鉛筆でかいた兵隊さんのラブレター、内地の新聞の切り抜きを、宝物でも出すようにして見せられたり、北海道からきた人―というだけで、目を輝かして会いにくる女性たちを前にすると、懐疑派精神も、放とう根性もしぼんでしまう。 

 歌人・比嘉栄子さんは沖縄女についてつぎのように書いている。

 王城の地首里では、女は儒教道徳にしばられ、士族の子女のしつけは特にきびしく、女は人前に出るな、大声でものをいうな、とましめられ、みだりに遊び歩くことをせず、粗食にあまんじ、質素なくらしをし、外出の場合には大きな藍(あい)紙かさを深くさして顔をかくすようにし、途中親類の者に出会っても、若い男とはことばもかわさなかった。また、せんたくだらいや物ほしざおも男とは別にした。

 首里からわずか四㌔しかはなれていない那覇の女性は、生活力がたくましく、活気にあふれ、交際ずきで明るく、自分をおかす者には、敢然と立ちむかい、話がわかれば、さらりと水にながしてこだわらない―

 うんぬんと述べているが、これは、沖縄女のタイトルをかりて、武士、町人の階級制定があった江戸時代の内地女を、こまかく具体的に書いているような気がする。

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