記者・清水幸一について

記者(戦記係) 清水幸一について

1920年(大正9年)北海道江別市生まれ。息子誕生の知らせをうけた父親は、北オホーツク海に面した枝幸町の奥山で森林伐採の現場監督をしていた。滞在していた町にちなんで名前をつけたという。

小学校入学は父親の任地の樺太(サハリン)で、卒業は札幌市の山鼻小学校。札幌商業学校へ進学。在校時にいっときラグビーをやり、校内誌に象徴派風の詩を発表したこともある。ちまたでは、札幌で一番のワルは大西薬局の息子か札商のシミズかと言われていたらしい。授業中は前を向いて座っているが、試験の用紙は毎回白紙。それが卒業まで続いた。

カネボウ人絹パルプに入社。工場があった満州(中国吉林省)へわたった。軍隊への入営が近づくころ、娼家に入りびたり、自殺も試みた。一升ビンの水に大量の睡眠薬をとかして飲んだが、死ねなかった。その後、現地の憲兵隊の独居房に長く拘束された。

軍隊入営は北海道旭川市。配属されたのは北海道守備のくま部隊で、山砲兵であった。終戦間近、アメリカ軍の上陸が予想された十勝港付近の海岸で陣地構築中に、くずれてきた粘度の下敷きになり足を骨折。天人峡の陸軍病院へ搬送された。除隊時の階級は兵長。

記者としてのスタートは北海道帯広市の新聞社から。ついで、札幌市の北海道新聞社に創設された夕刊北海タイムスの記者になった。文化部に所属し、街ダネを拾う記者であった。そのころ書いた記事<浮浪児は空をゆく雲のように自由だ>??当時の日本は戦勝国連合軍隊の占領下にあり、GHQの軍政がしかれていた。新聞はもちろん検閲をうけていた。この記事は検閲をかいくぐって世に出た。

「モサッケル気か 孤独にひがんだ童心」 記事の内容へリンク
夕刊北海タイムス(昭和21年12月21日付) 当時の記事画像へリンク

北海道にもどり古巣の北海タイムスに入社。夕刊に「ああ沖縄」を連載する。

清水幸一が「ああ沖縄」の準備をしていた1964年当時、防衛専修所が戦史叢書の編纂をすすめていた。その責任者は清水の父のイトコにあたる人であった。父は息子に、その人物からアドバイスを得るようにすすめた。息子は「島貫さんが編んでいるのは国家事業としての青史です。俺は民草の歴史、野史を書く」と答えている。

「ああ沖縄」連載後は、拡張団と一緒に新聞をふやして歩いた。また人手の足りない販売所に泊まりこんで朝刊や夕刊の配達、集金もした。退職時は校閲部長。

退職後に住んだのは、北海道当別町中小屋に30年ほど。生を終えたのは、当別町のとなりの月形町農事会で、2006年(平成18年)享年86歳。退職後は本を読み、油彩画を描き、詩をつくり、川魚を釣っていた。70歳ころから数年かけて石狩川水系の野鯉、隊長50㌢から90㌢までのもの100匹を釣った。

 

<山で>現場で油彩画を描いた

 

<自宅で>古書店から手に入れた本をよみふけった。

 

◆野鯉の姿揚 石狩川水系の野鯉 体長70㌢ 寸胴型 ◇釣り人 清水幸一 ◇調理 清水藤子 ◇撮影 大北弘美

60歳をすぎてからの詩作から5点を
清水幸一詩抄

―2017年 春 清水藤子記ー

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です