みたまへささげる ねむれるわが子へ・・・母の心、母のうた

四月一日から二百六十七回にわたった『あゝ沖縄』の最終回である。工藤キセさん(札幌市美園二条六丁目)から七月六日によせられた手紙と荒谷きみさん(札幌市北十二西一)が十二月五日、沖縄慰霊巡拝団員として沖縄へ渡って読んだ三篇のうたをかかげ、むすびとする。

(工藤さんの手紙、以下原文のまま)

前略、私は御紙あゝ沖縄を連日読ませていただいている者で御座います。それというのも十六年前、夫と死別しまして二歳の時婚家先きに残してきました一人の男の子が、昭和十六年七月十九日召集になりすぐ満州へ出征して三年後の十九年春、沖縄へ渡りまして、昭和二十年四月三十日小波津で戦死した山本稔の母親で御座います。稔が召集当時、私は再婚して樺太の真岡に居りましたが、山本よりの知らせで召集の事を知り、大きくなった姿を見たいものと小樽まで参りまして祖母や叔母等と入隊を見送り別れたのです。

沖縄へ渡りましてからは、さっぱり便りも有りませんでしたが、米軍に上陸され、いよいよ沖縄全滅の報道に胸をいためて居りましたら、案じていた通り悲しい戦死の公報を手にしたのでした。昭和二十年八月十六日朝早く真岡にソ連に上陸されまして、今思い出しても身ぶるいする程恐ろしい目に逢いまして二十二年五月にやっと浜益に引き上げて来ましたが、只今は美園に居ります。御紙を読んで居りましたものですから、若しやあの子の事がと期待しながら毎日始めから読んで切り取って大事にして居りました。なかなか稔の記事が出ませんので少々がっかりして居りました処、二十八日の夕刊に出ましたのを読んだ時は、喜びと言うか懐しさと言うか、万感胸に来て涙がこぼれ落ちました。でも出身地も遺族も不明と有りましたので、とても残念で筆を取りました次第です。

出身地、浜益郡浜益村字茂生村。遺族は叔母山本ハナ。この叔母が育てて呉れたのです。部隊も私達の引き上げでわからなくなりましたが、写真も古い出征前のより有りませんが、浜益には有ると思います。命有る限り私達遺族は戦死した子、夫、親を忘れる事なく思い出して居りますので、何卒次々とお続け下さいます様お願い申し上げます。  草々

×  ×

(荒谷さんの長男正治さんは真壁村で戦死し、万華の塔にまつられている)

吾子眠る

万華の塔に

ぬかずきて

立ちさりかねて

また伏し拝む

×  ×

(那覇港出航の十二月八日正午。静かな雨が降っていた)

別れ雨

降るとはかねて

ききしかど

そぼふる雨の

今日の沖縄

(荒谷さんの四男は十六歳で軍人を志願し、東支那海で戦死した)

山ならば

こだまもすらん

うなばらに

ただ聞ゆるは

波の音のみ

(おわり)

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