あゝ沖縄
戦没一万八十五柱の霊にささぐ
(2)
米軍の沖縄作戦 台湾の孤立狙う 練りに練った上陸作戦
(3)
第三十二軍の編成と作戦 上陸軍に出血戦法 A案にもとづき配備に
(5)
十月十日の大空襲 強い恐怖に震う 友軍機の迎撃も無力
(7)
慶良間列島に上陸 艦砲で山も変形 地獄さながら”集団自決”
(11)
死傷する島民 すごい機銃掃射 死体にすがり泣く乳児
(12)
スパイ 見れば日本人 山中の電線を切断
(13)
上がってこない米軍 緊張から退屈へ 四、五人つれだち 民家へ遊びに
(15)
血と肉と布片と 爆雷で体当たり めざす陣地にもう米軍
(17)
川島七男中尉 夜襲、一瞬に失敗 特殊眼鏡にねらわれる
(20)
巨大な線香花火 火を吹く特攻機 敵艦、一斉に集中砲火
(21)
戦艦・大和の最期 低雲、視界悪し 直撃15発 左舷の傷つかれる
(22)
神風賦 本島に上陸開始 最大の水陸作戦
(23)
勇ましい女子義勇軍 道産子を励ます 別れの宴で勇気百倍
(24)
住民も戦った 感ずる重大な任務 『使役』の名目で漁夫6人
(25)
思わず、神様… 砲火の中、急降下 爆撃機、カジを転じ軍艦に
(26)
すごい日本砲兵 全戦線に弾幕 重砲、地軸をゆるがす
(27)
泥人形の行進 すごい砲弾落下 連日の雨ひざまでぬかる
(29)
山三四八三部隊 生存わずか40人 筆舌に尽くせぬ悲惨さ
(30)
山三四八一部隊 後退につぐ後退 切り込み隊一人も帰らず
(31)
山3477部隊 捨て身の切り込み 与座岳一帯が最期の地
(33)
山1207部隊 最初の敵、レプラ 逃亡患者に手を焼く
(34)
平野大隊の戦闘① 遠くトリの声 夜襲前の平和な一瞬
(35)
平野大隊の戦闘② “とまるな走れ” 目ざす陣地あと百メートル
(36)
平野大隊の戦闘③ 犠牲者増すばかり 敵の手を読み作戦計画
(37)
平野大隊の戦闘④ 襲いくる敵戦車 肉弾戦のあけくれ
(38)
のんびりしている米軍 戦争どこ吹く風 雑談も楽しそう
(40)
百十八人の戦死者 “戦友愛”の記録 19年前、陸軍ケイ紙に記録
(42)
石兵団の切り込み① 生還は期せず 孤立の僚友救助に出発
(43)
石兵団の切り込み② なるようになれ 痛む傷口消えゆく記憶
(44)
石兵団の切り込み③ 頼む、水をくれ 死んでもいいから…
(45)
怒りと涙 あす突撃を敢行 玉砕決意 中隊長の声ひびく
(48)
斎藤ラッパ手 死ぬなら中隊と 重傷の身、後退こばむ
(50)
鈴木手記① 全員切り込み! 海軍砲台から無電はいる
(51)
鈴木手記② 声をのみ棒立ち ゴウの中に積み重なった人間の頭
(52)
コンサイス 弾薬ならぬ食糧 米軍から失敬、舌つづみ
(55)
米軍の第一次総攻撃 四昼夜の攻防戦 山兵団も最前線へ
(56)
たらちねの手紙① この顔、あの姿 いまはいずこの野や海に
(57)
たらちねの手紙② 思い出に感涙… 夫、愛児、兄弟をしのび
(58)
たらちねの手紙③ せめて遺品を… 知りたい最期の模様
(60)
三人の伝令兵 息をのむ数分 不発弾、二度目の命拾い
(61)
女学生 爆撃も無関心 一途に負傷兵を後送
(63)
工藤中隊② うなり、叫ぶ負傷兵 戦友も日一日と減る
(65)
母の名をよぶ “ああ、最後だなー” すべてが遠くへ
(67)
生き残りの三人 戦死、負傷が続出 兵隊の群に艦砲弾さく裂
(73)
切り込み えい光弾さく裂 不意をつき 敵機関銃の猛射
(74)
十数人の志村大隊 全弾撃ちつくす 期待のえんご砲撃もなく
(75)
火炎放射 日本陣地を焼く 四月十九日 はじめて使用
(76)
日本軍の地下陣地 米軍、進撃ならず 迷路で連絡、激しい抵抗
(80)
半田上等兵自決 無残、血まみれ “生きていたかったろうに”
(81)
吉岡伍長の涙 山となる戦死体 かたづける気力もない
(84)
ロケット弾攻撃 聞きなれぬ音 監視所の天井吹っ飛ぶ
(85)
スパイとビラ 船上から発火信号 日本軍の服装で暗躍
(87)
運玉森 一発も撃てず 幾十倍ものお返し
(88)
石沢准尉 “ああ!小隊長殿が” 部下思いだったのに
(91)
生きているとは… 陣地内でさく裂 しばし目もみえず
(92)
麻酔なしの手術 “絶叫”足を切断 赤カブのようなガスエソ
(94)
米軍の物資投下 大空を色どる 黄、白、緑の落下さん
(96)
ごう内にかんづめ 次々倒る部落民 米兵、上乗りして掃射
(97)
麻文仁陣地 水平線に大艦隊 3月20日 死ねばいいの闘魂
(98)
海上圧す米艦隊 じっと上陸を待つ 緊張にふるえながら
(99)
特攻機の体当たり 舞い上がる火柱 米重巡、一瞬に消ゆ
(100)
USAT6 スパイを逮捕 左薬指にイレズミ
亡き父がかつて交流していた人物を検索していてこのサイトを知りました。この「あゝ沖縄」も完全ではありませんが、最初から後半までは切抜きを持っており、本人も50回、51回と取上げてもらっています。戦後初の北海タイムス社主催の沖縄慰霊訪問団員でもあり、かろうじての生き残りでもあり、弟を亡くした遺族でもあるので、沖縄には人一倍思い入れがありました。父親が残していった沖縄戦に関する資料も多少はあり、戦後70年を期に私も読み直しを始めています。他の北海タイムス社の沖縄戦に関する連載にも熱意と意気込みを感じています。 がんばって下さい、今後もこのサイトを訪れようと思います。