沖縄風俗① 沖縄娘の慕情うたう 南方系の踊り”嘉納節”

資料は全部使いきれなかった―と前回に書いた。提供者各位に他日の活用をお約束し、当分保管させていただきたい。

以下二回にわたり、戦争をはなれて沖縄風俗、伝説などを紹介する。

唐手=柔道でも拳法でもなく素手で敵をふせぐ沖縄独特の護身術である。支那から伝来したといわれ、年代は明確でない。一説には、二百年前、首里赤田の佐久川氏が支那から習ってきて伝えたともいうが、当真王(西暦一四七六年)の中央集権が確立し、武備を撤廃してから急に発達したという。

唐手は大別して明霊流と小林流の二派がある。前者はふとった、骨ぐみの大きい人に適していて、基本姿勢はいいが、スピードにかける。後者は、やせて小さい人に適している。動作はすばやいが基本姿勢に欠点がある。形には、いろいろな種類があるが、そのおもなものをあげると、ピンアン(平安・五段)ナンハンチ(三段)バッサイ(大小)クーチャンクン(公相君)、五十四歩、セーシヤン、チントウ、チンテー、ローハイ、二十四、二百零八、ワンクワン、ウンピン(雲平)二進など。

明治三十八、九年ごろ、沖縄師範学校が体育科のなかに唐手をくわえて奨励したので、一時さかんにひろまったが、戦後は特技をもつ人々が塾を開いて指導にあたっている程度で、衰微している。

琉球舞踊=尚円王から十三代目の尚敬王(西暦一七二四年)時代には儒学の大家程順則、名相蔡温、劇聖玉城朝薫、日本文学者平敷屋朝敏、画家段元良、歌人恩納ナビなどの英才が前後して輩出、尚真王以来第二の黄金時代を招来した。

玉城朝薫は踊奉行に就任、組踊りをつくり、また、琉球音楽に踊りの振りつけをして国劇とした。古文書によると朝薫は、琉球ぬむかしから伝わる舞いの手(すなわちオモロ=みこ=の拝み手、押す手、こねり手)を母体に、自然に発生し、地方民間に伝承されているテンポの速い踊り手や、南方系の踊り、唐手、日本の謡曲や歌舞伎などをたくみに組みあわせて、琉球舞踊を完成した―といわれる。

当時は天下太平、好景気だったので、若い男女のデートがさかんだった。役人たちは儒教道徳に相反する行為として風紀取り締まりを断行したので明朗な女詩人・恩納ナビ女史は、レジスタンスをこころみた。いまも歌われている恩納節が、それであるという。

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恩納松下に禁止の碑のたちゆし恋しのぶまでの禁止ないさぬ

(恩納村の松の木の下に、夜遊び禁止の立て札がたっているが、恋をしてはならないという立て札ではないでしよう)

沖縄戦参加将兵のなかには、純情で多感な青年たちも数多くいたと思う。死を目前にしてこれらの青年たちがナビ女史の情熱をうけつぐ沖縄の慕情にこたえ、はかないロマンスの花をさかせた―、こんなエピソードの存在も、沖縄戦一様相であった。

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