沖縄風俗② 今に残る定幹(江戸時代の学者)説 神武天皇は琉球に誕生

沖縄の歴史は古い。江戸時代から浦島太郎が訪れた竜宮城は、琉球である―との説があるが、沖縄本島北西の島・伊平屋島は、天の岩戸の伝説の地である。この島の最北端・田名崎に『クマヤ』というところがある。東海岸の東クマヤから西海岸の西クマヤまで、ドウクツが二㌔くらいつづいており、入り口には岩の戸があって、穴の奥には石垣が積まれ、むかし人間が住んだあとがある。いまでも毎年、このドウクツの前で部落民が神をまつる行事をしているが、それを見た者は、世にいう天孫降臨の地、天の岩戸をしのばせる―といっている。

江戸時代の学者藤井貞幹は、その著書『衝口発』で皇室のことにふれ『神武天皇は、琉球の恵平也島に生誕遊ばされり』とのべ、本居宣長の反論『鉗狂人』(著書)をうけた。しかし、現在の学者のなかにも、貞幹説に似た説をとなえる人がいるそうである。ちなみに、クマヤとは、神が岩屋にくもがくれしたことの俗言だそうだ。この記述は、沖縄観光協会事務局長山城善三氏の『観光沖縄』をタネ本にしている。また、本島北部・本部(もとぶ)半島の今帰仁村(なきじん)の東北端、運天港は、鎮西八郎源為朝の上陸した港でもあり、中部の浦添村の牧港(まちなと)は、為朝がここから帰ってゆき、彼の妻となった沖縄娘とその子供が、為朝のもどってくるのを待ちこがれた港である―という。いささか観光ガイド嬢めいてきたが、ついでにもうひとつ。

山兵団が駐在した糸満町の入り口に、サンゴ礁の岩山があり、氏神をまつる白銀堂(神社)がある。ここの伝説は、沖縄を一時支配した薩摩(鹿児島藩)がからんでいる。むかし、糸満に住むミドン(美殿)という男が、薩摩の武士から金を借りた。返済ができなくて、ここの岩下にかくれていたが、武士に見つかり、殺されそうになった。ミドンは『勇気がでたら手をひけ、手がでたら勇気ひけ―ということわざがある。短気をおこして立腹されては失敗します。なにとぞしばらくおまちください』

といって難をまぬがれた。薩摩の武士は、国へ帰って、夜、家へはいると、妻は男と寝ていた。刀をぬき、切り殺そうとした一瞬、ミドンのことばを思いだし、よく見ると、母が男のよそおいをして添寝していたのであった。

武士はミドンの教えに感謝し、再度、沖縄に渡ったとき、返礼に借金を帳消しにしようとしたが、ミドンも返済の用意をしていたので、たがいにゆずりあい、とうとう、この岩の下に銀をうめ、おたがいに感謝しあった―というのである。

この話は、沖縄住民と薩摩藩住民の親善美談だが、大勢としては『薩摩は琉球の支那貿易の利潤をろう断して、その経済的基礎を強固にし、琉球の政治に干渉し、朝鮮、南洋諸島との交易を禁止した。これより三百年間、海外発展の気性は消え、勇剛果敢な県民性は保守退えい的となり、廃藩置県におよんだのである』

 

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