米軍上陸 海おおう米艦船 砲弾サク裂続く三時間

七師団戦記   あゝ沖縄

―戦没一万八十五柱の霊にささぐ―は、昭和四十年(一九六五年)四月一日から、北海タイムス紙上に、二六七回にわたって掲載された。

太平洋戦争の最末期、日本国内で唯一、地上戦が戦われた沖縄での記録である。

戦場から生還した住民と兵士の証言、日記、手記が織り込まれている。

 

 

 

 

 

 

『上陸開始!』

米第五十一機動部隊司令官ターナー中将が信号を発した。昭和二十年四月一日午前五時六分。摂氏二十二度。空気は冷たいが、天気は晴れのようだ。さわやかな東北東の風。東支那海の静かな海面。沖縄本島の中部の西海岸・比謝(ひじゃ)川右岸の上陸地点―渡具知(とぐち)海岸一帯には、白い波がしら一つない。

渡具知部落の背景に、嘉手納(かでな)中飛行場、その北方二キロに読谷(よみたん)北飛行場がある。この二つの飛行場獲得をねらい、米軍部隊の総攻撃開始は午前八時三十分に決定していた。

視界は十六キロ。日本軍の陣地、動向、何一つ見落とすことはない。敵前上陸には好条件ぞろいだ。午前五時三十分、米艦隊は総攻撃直前の援護射撃を開始。戦艦十隻、巡洋艦九隻、駆逐艦二十三隻、砲艦百七十七隻がそれぞれの砲門を一斉に開いた。

付近の住民はゴウにはいり、敵弾をさけていたので、この光景をほとんどの者は見ていないが、富里誠輝(コザ市字 胡屋三五)が自宅付近から見ると、西海岸を埋め尽くすほどの大艦隊が水平線にあざやかに浮かび、そのほとんどが動いていない。

大小無数の艦船のなかには真っ白い軍艦もある。パチパチパチ・・・と花火が発火するように艦砲発射のセン光が日の光りをはじき、いつやむともしれぬ砲撃がつづく。トタンを、たくさんのカナヅチでたたき続けているような砲撃音。

眼前に広がる広野に、間断なく砲弾がサク列し、黒煙が上がる。快晴なのに、渡具知を含む嘉手納海岸一帯は黄色く煙っている。午前七時四十五分。空母艦隊が、上陸部隊を乗せた輸送船団を護衛して到着。艦船は一千三百二十一隻となり、海は船で黒くなった。

たちまち空母から艦載機が飛びたつ。百二十八機が海岸線から陸地にかけ、つぎつぎとナパーム弾を投下。炎の海だ。一発で二千から二千五百メートル平方の広さで発火、八百度以上の高熱ですべてを焼きはらう。そのすさまじさと、空をおおう米軍機の数に富里さんは、仰天してしまった。

大編隊が那覇から読谷方面にかけ、ゆうゆうと飛行している。絶え間のない艦砲、爆弾のサク烈。天地のどよめき。だが、日本軍は沈黙し、応戦の気配は全然ない。

米軍の敵前上陸用船舶は、上陸部隊、水陸両用戦車、水陸両用牽引車、上陸用舟艇を積んで到着していたが、船首の大きな口をあけ、それらを吐き出した。水陸両用戦車が、第一波を編成、攻撃の旗を朝風になびかせて前進する。上陸地点まで三千六百㍍。午前八時だ。このうしろに、上陸部隊を乗せた上陸用舟艇が海岸に近づくにつれ、乗り組みの米兵は、いまにも日本軍の砲撃を受けるのではないかと、かたずをのんでいた。だが、時たま、臼(きゅう)砲弾やその他の砲弾が飛んでくるだけだ。

海岸近くの障害物は、水中爆破隊、水陸両用ケン引車がかたづけた。抵抗らしい抵抗がない。まるで大演習のようだ。米軍の攻撃第一波は指定時間の八時三十分に接岸。二、三分のうちに各部隊も上陸を終えた。

支援砲火は、米軍第一波が接岸する一、二分前まで、猛射を浴びせていたが、ピタリとやみ、聞こえるのは、内陸向けの遠い砲音だけ。五時半から八時半までの三時間に、米軍が撃ち込んだ砲弾は、五㌅砲以上の砲弾四万四千八百二十五発、四・五㌅ロケット弾三万三千発、四・二㌅臼砲弾(自動砲弾)二万二千五百発。

上陸海岸線から陸地へ向かって約一千㍍以内は百㍍平方に二十五発の割りで砲弾が落下した。これは敵前上陸の支援砲撃としては、いまだかつてない猛烈な集中砲撃であった。

砲煙や砂ジンが消えると、砲撃でやられた火炎の煙こそ。あちこちから立ちのぼっているが、静寂そのもの。ひとっこ一人見えぬ牧歌的な島の光景がまぶしい南国の光を浴び、ほどよい暖かさのなかに広がっていた。この平和なながめが、米兵には異様に感じられた。あれほど予期していた日本軍の反撃がない。ワナにかかったのではないか?不吉な予感(これは、その後現実となって米軍を苦闘に巻き込んだ)と、疑心をいだかせた。偵察を出した。付近に日本軍はおらず、地雷もないことがはっきりした。陽気な米軍は、きょうがエープリル・フールであることを思い浮かべた。

後続部隊は、どんどん上陸し、一時間に一万六千、夕方までに六万以上が上陸。上陸地点から二㍄の距離にあった中・北両飛行場を攻撃、日本軍守備隊を全滅させて占領した。

◇資料の提供をお願いします。

『七師団戦記・あヽ沖縄』を完璧なものとするため、沖縄戦の記録をお持ちの方、関係者をご存じの方は札幌市大通り西四北海タイムス社戦記係(③○一三一)までご一報ください。

また沖縄戦没者アルバムを作成しますから、顔写真をお持ちの方は部隊名(連・中隊)階級氏名、遺族の住所氏名を明記してお送りください。

 

沖縄戦・きょうの暦

4月1日

二十年前のきょう米軍六万、沖縄西海岸の渡具知を中心に残波岬から北谷海岸にかけて上陸。北・中飛行場を占領。

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