十月十日の大空襲 強い恐怖に震う 友軍機の迎撃も無力

道産子の山兵団各部隊は、北飛行場一帯でそれぞれ陣地構築をはじめた。堅い石灰岩をツルハシとスコップで掘り、モッコで運ぶ。朝の六時から夕方六時まで、一日の休みもない重労働だった。「北海道の兵隊さんは、よく働いた。ふんどし一本、むこうはち巻き、汗と泥にまみれ、黙々と作業をつづけていた。われわれなら、二人か三人でやっとかつぐような松丸太を、一人でかついで平気だった」―いまや、沖縄の伝説となっている。

山兵団将兵はじめ沖縄守備軍が、米軍のはげしい戦闘ぶりを、初めて目の前に見せつけられたのは、昭和十九年十月十日の大空襲だった。

山三四七五部隊第二歩兵砲小隊撫養富司兵長(深川市納内町北二丁目)は、佐藤軍曹以下十五人で国頭郡宇加地部落尾屯川岸で陣地構築中だった。(以下その手記)

午前六時半、爆音を聞き、友軍機かな?と空を見上げた。どうも様子が変だ。機体の色が違うし、低空。しかも、すばらしく早い。敵機だ!―北(読谷)飛行場の友軍機は五機だけ。米軍機のすさまじい銃撃、爆撃。これにたいし友軍高射砲が盛んに撃ちあげる。わが小隊も、戦闘配置にはついたが、歩兵砲では、いかんともしがたい。米軍機は格納庫、兵舎をかたっぱしから爆撃してゆく。那覇市が何本も黒煙をあげている。

山三七八○部隊第一中隊石塚分隊河本博上等兵(神戸市灘区篠原北町四丁目五三、知方)は、北飛行場から南西約一㌔の川平部落で作業中だった。(以下その手記)

朝、砲弾、爆弾のサク裂音がとどろき、北飛行場は、爆煙に包まれた。上空に飛行機が十数機。はじめ高射砲の演習かなと思った。飛び交う飛行機は、キラキラ光る紙片をまいているため、機影や機数が、はっきりつかめない。地上の飛行機が、つぎつぎに火をふき、炎と黒煙をあげている。高射砲は実弾だ。急に、からだが震えてきた。手を握りしめ、大地をふんばり、目前の敵機を見つめていた。

米軍機は煙幕をはり、地上の友軍機をつぎつぎに爆破する。友軍機が二機飛びたったが、煙幕のなかから米軍機四機が現われ、空中戦となった。グラマンだ。星のマークがあざやかだ。意外なところから、から薬きょう、機銃弾が降ってくる。岩かげにとび込み見守っていた。セイ惨な空中戦が四、五分つづいた。友軍機一機が火と煙をふく。つづいて残り一機も。二機は火をふきながら、海上へ進んだ。必死になって操縦しているのだろう。五百㍍ほど沖合いに水しぶきがあがった。静かになった海面にパラシュートらしい布片が一つ、波に漂っている。

米軍機は去った。私をはじめ兵隊たちは、岩かげから出るのを忘れていた。強い恐怖と興奮からだった。われわれは、川平部落に帰った。村じゅうの人が、飛行場作業にいっている者を心配し、不安な顔を集めていた。

飛行場から馬車が帰ってきた。部落民の死体を十六積んでおり、バナナを持ったままの中年婦人の姿もあった。車の床板は血にそまり、したたり落ちた血が道に、えんえんと続いている。泣きわめく声が耳元をえぐるようだった。

翌日、眼下の海面に黒く重油でよごれた木片や布きれが漂い、波打ちぎわに、真っ黒な人間大の魚が、うちあげられていた。輸送船もやられたな?と思った。すると、それは魚ではない―見直すと、まさしく帝国軍人の変わり果てた姿だ。

首も足もない。だが水分をふくんで、やけに重い死体を、戸板で山へ運びあげ、埋葬した。名もなく、どこの出身か、親兄弟もわからない。墓標に無名戦士の墓と書いた。だれかのささげた草花が一輪、夕日にそまっていた。

翌朝、またボートが一隻、波うちぎわに漂っていた。ボートの中に上着と略帽と手帳が一冊あった。乗員は機銃掃射でやられたのだろう。ボートは弾丸のあとだらけで、遺品は血と汗にまみれていた。

山三四八山部隊本部兵器部の杢(もく)大弘伍長(帯広市東三南五)は(中、嘉手納)飛行場付近で作業中だった(以下その手記)

早朝、東の空に五機の編隊が西へ向かうのを発見した。高度八千㍍。一機が編隊をはなれて急降下。中飛行場が爆撃をうけ黒煙があがる。つぎつぎに急降下爆撃がくりかえされる。甲号戦備のサイレンがなり全員配置につく。各部隊へ補給する貯蔵弾薬を守らねばならぬ。草や木で懸命に偽装(ぎそう)する。グラマンが頭上すれすれに飛んできて、機銃掃射だ。

友軍機五機が飛びたち空中戦開始。那覇市も港の船も燃えている。高射砲弾が、晴れわたった空に星がきらめくように飛びちり、破片となって落ちてくる。友軍機は五機以外一機もあらわれず、米軍機は一日中攻撃をやめない。われわれは、朝昼飲まず食わず弾薬を守るのに夢中だった。

資料の提供をお願いします。

「七師団戦記・あヽ沖縄」を完ぺきなものとするため、沖縄戦の記録をお持ちの方または体験された方、関係者をご存じの方は札幌市大通西北海タイムス社戦記係(③0131)までご一報ください。

また沖縄戦没者アルバムを作成しますから、顔写真をお持ちの方は(連・中隊)階級氏名、遺族の住所氏名を明記してお送りください。

 

 

 

沖縄戦・きょうの暦

4月5日

小磯内閣解散。米軍は、沖縄で一番せまい幅四㌔ほどの石川地峡を占領、島を南北に両断して前進をはじめた。

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