慶良間列島に上陸 艦砲で山も変形 地獄さながら”集団自決”

米軍の空襲は、日を追って激しくなった。沖縄上空に米軍機を見ない日はなくなり、日本軍は、もう空襲警報を出さなかった。“定期便”―そう呼んで慣れっこになってしまっていた。

米軍は、すでに一月二十二日の空襲で、沖縄全土の八〇㌫を航空写真におさめていた。と同時に日本軍陣地の状況をカメラでとらえ、いささかでも不明な地点にたいしては、何度も偵察機を飛ばして航空写真をとり、上陸のための地図つくりを急いだ。さらに、沖縄の歴史、地理、政治、風俗、人情など、いっさいの研究と分析をし、教育用パンフレットを作って、将兵に配り予備知識を与えていた。

これにたいし、日本軍将校が沖縄へ配置されるのを知ったのは上陸五日前、兵隊は当日まで何も知らされなかった。

日本軍は空襲のため、昼間は一歩も外を歩けなくなった。三月二十五日は歩兵第三十二連隊の軍旗祭だったが、第二大隊二千余人は、米軍機の現われない午前二時に起床、山城部落の井戸の広場へ集合した。

志村大隊長は「大隊全員が集合するのもこれが最後であろう」と訓辞したが、翌日、米軍の慶良間列島上陸が開始された。

米軍は、あすをひかえ、南端の島尻海岸に陽動作戦(上陸するようにみせかける攻撃)を展開した。守備していた山兵団はてっきりじょうりくしてくるものと思った。志村大隊長の話をきき、決戦の近いことを感じて兵舎へ戻った撫養兵長は―「沖の方に、なにか見えるぞーッ」という声に、みんなと山へ登った。水平線に小山がたくさん見える。かすかな煙のようなものが、数十本たち上っている。軍艦だ。―大艦隊が、ずらりとならんでいる。

「ああ、連合艦隊だ。やっぱり、健在だったのだ……」感嘆の声があがった。 間もなく爆音が聞こえてきた。聞きなれている米軍機のものだ。

急に、へなへなと、みんなすわり込んでしまった。大艦隊はみるみるうちに接近する。ものすごく大きい。そのうえ、大変な数だ。艦船は、すき間もなく見渡す限りの海岸線をとりかこんだ。まるで夢でも見ているような気持ちだった。

艦載機の大編隊は空をおおい銃爆撃をはじめた。耳がガンガンする。もう、夢見ごこちどころではない。―「天一号作戦甲号戦備」下令。

艦砲射撃は午後から開始された。初めて浴びる艦砲の直撃。そのたえ間ないすさまじさにはさすがの道産子も度ギモを抜かれた。

ものすごい物量だ。緑におおわれていた大地は、一面の赤肌に変わり、山は変形し、部落は黒煙を拭きあげた。だが、米軍は第一波を上陸させ、第二波上陸と同時に攻撃・全滅させることになっているので一発も撃てない。日中は、ぐらぐらゆれる洞くつ内にとじこもったままだった。

三月二十六日午前八時四分から九時二十一分にわたり、米軍は、那覇西方洋上三十㌔の慶良間列島に上陸した。列島には、渡嘉敷島(球兵団・赤松隊長以下海上特攻隊百三十人、整備兵百二十人、現地防衛隊七十人、朝鮮人軍夫二千人が守備)座間味島(球兵団・梅沢少佐以下一千人の守備隊)阿嘉島(古賀、野田少佐以下一千三百人の守備隊)慶留間島、屋嘉比島その他の小島がある。各島で戦闘が行われたが、最も悲惨をきわめたのは渡嘉敷島だ。日本軍から自決を命ぜられた島民は、恩納河原で集団自決をとげた。手りゅう弾、かみそり、クワ、カマ、こん棒などで親しい者を殺す光景は地獄絵であった―と生き残りの島民は記録にとどめ、米軍もまた、その記録の中で―

第三○六連隊の兵士たちは、二十八日夜、遠くのほうで何回となく爆発音や苦痛のうめき声を聞いた。翌朝、小さな谷間に百五十人以上の死体が散乱、まだ死にきれずにもがいている者もあった。父親が家族を殺し、最後に自殺した。一枚の毛布の下に、家族全部がからだを帯でくくりつけて死んでいるものもあった。米軍医療班が治療をはじめると、娘を殺した一老父は、自責の念にかられ、ワッと泣き伏してしまった……。

ここに日本軍は海上てい進隊基地を設け、米艦船を体当たりで全滅させる作戦だったが米軍は、事前に、この特攻船三百五十隻を破壊した。逆に米海軍の小型基地を建設、燃料弾薬の補給、艦船修理、海軍機の発着点として本島作戦を助けた。

米軍が“自殺船”と呼んだ特攻船は、長さ五・四㍍幅一・三㍍の合板づくり、八十五馬力六気筒シボレー自動車エンジンで最大速力八十㌩。操縦席の後方に百五十六㌔爆雷二個を積み三隻一緒に米艦船一隻に近より、船尾から爆雷をころげ落とす。爆発まで五秒。乗員は助からない。

三十一日、米軍は、那覇西方海上十㌔の神山島に上陸した。

 

沖縄戦・きょうの暦

4月7日

戦艦大和、沖縄への途中、米軍機の攻撃をうけ沈没。日本軍、八日の攻撃を下令。夜、鈴木貫太郎内閣成立。

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