スパイ 見れば日本人 山中の電線を切断

船舶工兵第二十三連隊(暁兵団一六七四一部隊・長大島詰男少佐)は、昭和十九年七月、嘉手納に上陸、製糖工場に駐とんして南方戦線へ行く船団や、本土へ北上する船団の世話をしていた。

二十年二月、戦局の急迫で歩兵部隊に編成がえ。知念半島の佐敷村に移駐。中城湾に面した丘の中腹に陣地構築を始めた。空爆下に作業をつづけ、三月二十六日、部隊本部は、佐敷村西方二㌔半の稲福台上陣地へ転進、北上する米艦隊の艦砲射撃と空襲をうけた。

四月一日、米軍上陸。米軍は与那原方面から南下すると判定し、重砲第七連隊(長桶口大佐)の指揮下にはいり、船舶の部隊本部は、稲福北方一㌔の西原の横穴ごうに移動、主力中隊は、西原からさらに北へ一㌔の雨乞(あまごい)森(もり)(標高百五十五㍍)に配置された。

以下は部隊本部伝令田中義徳兵長(帯広市東二南二十二)の手記である。

陣地配備が広くなったので、伝令も忙しくなった。有線電話は、被弾、爆風のため通信兵が必死でやっても切断されつづけだ。無線も強力な電波妨害で用をなさない。首里軍司令部、他部隊への連絡は、徒歩の伝令だけだ。

日没、米艦載機の来襲が少なくなったころ、将校一人、兵一、二人がどうくつを出発、首里に夜中について命令を受領、夜明けがた帰隊した。私(田中)は、防須正秀少尉の伝令で、定期便のように首里、西原間を走った。防須少尉は、インドのビハリ・ボース氏と、相馬黒光女史のお嬢さんとの間に生まれた人だ。ボース氏は、大将四年十二月一日日本に亡命、東京新宿の中村屋女主人にかくまわれてその養子となった。

少尉と夜の津嘉山(つがやま)を通りかかった。山から兵が四、五人がおりてきた。視線をこらすと、なかの一人が両手をしばられている。

「どうした?」

立ちどまった防須少尉が声をかけた。

「こいつ、スパイです。いま山の中で電線を切っていたんでつかまえました」

兵隊の声が殺気だっている。やみをすかして見ると、スパイは伍長の階級章をつけた日本人。顔がはれあがっている。兵隊たちは、むらがり寄って、またなぐりはじめた。

「この野郎ッ、どこからきたッ」

スパイは、なぐられ、けられ悲鳴をあげて息もたえだえ―

「テニアン……テニアンから……派遣された」

アクセントも普通の日本語だ。トラックが通りかかった。スパイたちと球兵団の弾薬輸送車に便乗、敵陣からまる見えなので、全速で飛ばし、スパイを司令部に渡した。

米軍の絶え間のない砲爆撃で各部落は焼け落ち、石がきだけが残っている。防須少尉、谷口上等兵、私(田中)の三人は、石がきづたいに、弾丸にえぐられた歩きにくい道を急いでいた。遠い部落の燃え落ちた残り火だろう。うらめしそうな、小さく弱い火が見える。

「痛いよオー兵隊さん、兵隊さん……助けてえー」

道路わきに人影が二つ。しゃがみ込んでいるばあさんの泣き声につづいて「アンマ、アンマ…」幼ない泣き声。ばあさんと娘だ。娘は、子供を背負っている。谷口が歩み寄った。

「どうした?」

「痛い…助けて、兵隊さん…」

いきなり、ばあさんが、谷口の足にしがみついた。両脚がない。しゃがんでいたのではなく立てないのだ。艦砲でやられたらしい。血まみれの顔に、髪をふり乱し、目がつりあがっている。もう、助けるどころではない。痛さを、こらえようとするのだろう。振っても、ゆすっても、谷口の足をはなさない。任務がある。私(田中)も谷口に力をかし、手をふりはなそうとしたが、ひどい力だ。二人で顔をなぐりつづけても、はなさない。娘も、泣きわめきながら、ばあさんの手をはなそうとする。

ばあさんは、目をつりあげ、谷口の足を抱きかかえたまま、息をひきとった。指を一本一本ほぐし、谷口は、ばあさんからはなれた。死体にとりすがって泣きくずれる娘。なぐさめのことばもなく、三人は、その場に立ちすくんだ。

いまもってあのばあさんを死に追いやったのは、われわれ三人のような気がしてならない。子供を背負っていた娘が健在であれば、きっと、われわれをうらんでいることだろう。防須少尉、谷口とも戦死したいま、私(田中)一人が、責められているような気がする。生涯、この思い出を忘れることはないだろう。あの場合、ああするよりほかに方法がなかったんだが―(この田中の手記は、四月一日以降五日ごろのことと推定される)

 

沖縄戦・きょうの暦

4月12日

ルーズベルト大統領死去。大本営は、北、中飛行場奪回を命じた。歩兵第二十二連隊、南上原方面で夜襲決行。二個大隊全滅。

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