のんびりしている米軍 戦争どこ吹く風 雑談も楽しそう

四月十三日から十四日にかけ石兵団が守備する西海岸線の模様を、志田十司夫上等兵(札幌出身・第六十二師団歩兵第六十四旅団独立歩兵第十五大隊第五中隊=岸本中隊)の手記によって書く。

十三日、独立歩兵第十五大隊長飯塚豊三郎少佐は、各陣地の中隊に前進を命じた。第五中隊(岸本孝中尉)は、安謝・天久村の洞窟陣地を出発、北東三キロの経塚(けいづか)安波茶(あわちゃ)付近でタコツボ陣地の構築にとりかかった。同中隊の第三小隊(長・奥原准尉以下四十八人)は安波茶と経塚の中間に位置し、タコツボを掘り、肉薄攻撃の準備をすませた。

野営して十四日をむかえ、夜になった。第九中隊長岸本中尉は各小隊に、敵の幕舎と鉄橋を爆破せよ―と命令した。小隊員は二人で一組を編成、私(志田)と広瀬一等兵は、第三小隊長奥原准尉によばれた。東方約一キロの米軍幕舎を爆破せよ―私(志田)は、遂にくるべき時がきたと、命令を聞いて覚悟を決めた。

黄色火薬を三十センチ立方の箱につめ、上に亀の子手りゅう弾をつけた急増爆雷。二人はそれを背負った。一人が四発ずつ手りゅう弾をもつ。銃剣は腰にさした。音をさせないためだ。午後九時四十分、二人は出発した。

敵は、絶え間なく照明弾をうちあげる。二人は地に伏せながら前進し、十一時ごろ、目的地についた。敵のいる方向を照明弾の明かりでうかがうと、幕舎付近で五、六十人の米兵が、休憩している。のんびりタバコをふかし、楽しそうに雑談している光景は、戦争どこ吹く風といった様子だ。日本軍とは、天地の相違―意外な敵兵の状態に、私(志田)は、おどろきの顔を広瀬と見合わせた。

腕時計を見た。十一時を少しすぎている。十一時十五分に、急造爆雷を幕舎に投げ込むことを広瀬と決め、二手に別れた。

私(志田)は岩かげから岩かげと、はい伝い米軍の幕舎へ接近していった。照明弾が消え、真っくらやみ。前進には好つごうだ。音をたてないよう、ひじで少しずつはって進んで行った。

目前に、なにか、白い、まるくふくらんだようなものがある。正体を確かめようと思い、私(志田)は、静かに頭をもちあげた。眼前の物体が、かすかに動いた。米兵の顔だ。

ドキンと心臓が飛びあがる。米兵は悲鳴をあげ、幕舎めがけて逃げて行く。もう、まごまごしてはいられない。背中の急造爆雷を大急ぎでおろした。

爆雷の手りゅう弾を発火、幕舎に投げ込む。せん光とごう音。からだが爆風で吹き飛ばされる。たちまちあわてた敵兵がめくらうちに撃ってくる。私(志田)は、岩かげに身をかくし、敵弾をさけた。広瀬はどうしたろう?―彼のことが気がかりだった。しばらく待っていた。

撃たれたか?それとも、爆雷を投げ込めなくなって、引き返したか?敵は、まだ撃ちまくっている。爆雷の音はしない。腕時計は十一時四十五分。

ひとしきりすさまじかった敵の射撃が、間遠くなった。広瀬は小隊へ帰ったかもしれない。私(志田)は、帰隊する決心をし、静かに後退をはじめた。

途中で会うかもしれない、と考えたが、会わない。約一時間かかって小隊に戻り、すぐ、広瀬は帰っているかとたずねた。まだだという。

やはり、やられたのか―胸がジーンとあつくなる。

その状況を小隊長・奥原准尉に報告した。准尉は悲痛な顔でしばらく沈黙していた。私(志田)は准尉の顔を見守っているうちに、目頭があつくなってきた。

「ご苦労であった…」、准尉はひとこと、礼をいい、立ち去っていった。

タコツボへ戻ると、戦友たちは待っていたかのように、夜襲の状況をたずねた。私(志田)は気が重かった。ことばすくなく、その状況を話しながらも広瀬が無事、陣地へ帰ってくることを念じつづけた。

朝になった。広瀬は戻ってこなかった。鉄橋爆破に行った石川一等兵と島田二等兵も帰らなかった。

この日以来、米地上軍は、わが陣地の目前まで迫った。米軍は、すでに制空権を握っていたので、空と陸の共同作戦をとっていた。

朝六時半ごろ、米軍観測機がまず偵察飛行をやり、七時ごろから、グラマン、カーチス、ロッキードの各種米軍機が爆撃と機銃掃射を午後六時まで浴びせつづける。六時から六時半まで観測機が飛んで一日が終わる。これが日課になっていた。

はじめ、日本軍は米観測機をバカにしていたが、観測機が空から姿を消すと、かならず艦砲、爆撃、砲撃が集中、地形が変形するまでやられる。

観測機は、機関銃も持っていないが、無線機と電波探知機を装備し、日本軍の通信は、全部この電波探知機にとらえられていた。

 

沖縄戦・きょうの暦

5月9日

戦局に変化なし

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