鈴木手記② 声をのみ棒立ち ゴウの中に積み重なった人間の頭

 六日麻、再編成が伝えられ、本部付の松本曹長も第三中隊に復帰することになった。ごうの外は、第一線ほどではないが、それでも、艦砲のリユウ散弾がサク裂し、時おり、グラマンが部落を爆撃してゆく。

 松本曹長は、ヒゲをそりはじめた。ひさしぶりに中隊へ帰るのだから・・・といって。私(鈴木)たちは、ヒゲくらい、どうだっていいではないかと、なんどもいい、ヒゲそりをやめさせようとした。

 しつっこいくらいいった。というのは、北支で戦闘中急に、だれかが、洗たくをしたり、着がえをしたり、頭の毛をかったりする。いつもと変ったことをするーするとそのあとで、かならず不幸なことが起きるのを、みんなが知っていたからだ。ヒゲをそり終えた松本曹長は、みんなと別れを惜しみ、第三中隊へ帰って行った。また、この日は、何日ぶりかでニギリめしも配給になった。これも、あとで考えてみると、変ったことだった。

 連続的に爆発音がひびき、私(鈴木)たちのいる民間ごうがゆれ、内部の土がくずれてきたのは、それから二、三十分後だった。出て見ると、グラマン五、六機が、山ぎわをミシンでぬうように爆撃している。ぼんやり見ていては危険なので、ごうへはいった。はいってはみたが、気が落ち着かない。また出て、外部のようすをうかがった。

 本部が火をふいている。真ッ赤な火勢がすざまじい。夢中で燃えているところへ走った。第三中隊(機関銃中隊)のごうだ。コの字形のごうの前、七、八㍍のところにカヤぶきの兵舎があった。これが爆撃され、偽装してある木が燃えている。火は燃えひろがって入り口の坑木にうつり、坑口が土砂でふさがっている。ごうから脱出した者は三、四人だという。あとの者はごうの中だ。消化作業、それから発破作業を始めた。気はせくがエンピは小さい。土はいくらもはねられない。一刻も早く中の者を救助してやろうと、みんな、目の色を変えて発掘をいそいだ。どれくらいかかったかー時間は、長かったような気もするし、それほどではなかったようにも思える。

 やっと坑口が開いた。同時に、発掘にあたった者は、エンピを握ったまま、声をのみ、棒立ちになった。顔から血の気がひいてゆく。私(鈴木)だけではなかった。みんな真ッさおだ。

 坑口は二㍍平方ほどあった。その下から上まで、丸い、こげ茶色のものがビッシリ積み重なっている。玉石をつみかさねた石垣のようだ。よく見ると、全部、人間の頭―ちっ息死だ。入り口をふさがれた苦しさに押しよせ、息絶えたのだ。どんなにか苦しかったろう。膚にアワだつ光景―ごう内には、塩見大尉のひきいる機関銃中隊、炊事関係の沖縄女子挺身隊員約二十人、きのう着任した飯田中尉、ヒゲをそって帰隊した松本曹長。あれは、つい三十分ほど前だったがー

 賀谷部隊長は、ここにいても生存できる見込みはないと判断した。残存兵力約二百人をつれ、午後十時第一線へ前進、棚原をへて、千原方面に陣地をかまえた。わが賀谷部隊の東側に、第十四大隊、西嘉数方面に第十三大隊がいた。

 嘉数方面では、激しい戦闘がつづいていた。だが、賀谷支隊の正面では、大した戦闘もなく、二、三日たった。部隊には連隊砲も重機関銃もなかった。

 夜になると、女子挺身隊がニギリめしを運んでくれた。炊事したところから一㌔あまりの道を往復するうちに、彼女たちも、戦死してゆき、運んでくるニギリめしは、一日一日と数が減っていった。

 このころから、われわれの側面、一六五高地で、彼我の争奪戦が開始された。昼は占領され、夜間は奪いかえす。この争奪戦に第五中隊(長・八木中尉)が参加し、全滅した。第十四大隊も全滅に近い打撃をうけた。間もなく、山兵団が前線に出てきたーという話を聞いた。

 その後、賀谷支隊は翁長にさがった、私(鈴木)は四月二十五日午前五時、〉偵察に出て負傷。夜、後方の病院にさがった。病院のごうは満員で、ごうの前のイモ畑に、大勢の重傷者がイモガラをかぶせられ、横たわっていた。

 回復の見込みのないものは、病院内に入れない。敵機からかくすために、イモガラをかぶせてあると聞いた。大勢の重傷者たちのうめき声が、いつまでも耳についてはなれなかった。

 鈴木竜一さんは『沖縄戦で戦没された将兵、島の人々に心から敬意と感謝を表します。ニギリめしを運んでくれた女子挺身隊のめい福を祈り、いまだに発掘されない幸地のごうの遺体が、一日も早くとむらわれるよう祈りつづけております』と語っているが、幸地のごうは、発掘不能になっている。

沖縄戦きょうの暦 5月22日

この日から二十八日まで豪雨。各戦線とも砲撃戦。両軍の距離は二、三百㍍。

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