女学生たち 爆撃も無関心 一途に負傷兵を後送

 こんなに砲撃をあびているのでは、とても経塚部落には入ってゆけない。

撫養兵長は、そう思った。

 なおよく見ていると、砲煙弾雨につつまれた部落から、担架で負傷兵が運び出されている。運んでいるのは、沖縄の女学生たちだ。モンペ姿に白ハチ巻き、砲撃も爆撃もいっさい無関心といった様子で、一途に負傷兵を後送している。この光景を見ているうちに谷藤軍曹も撫養兵長もはずかしくなってきた。『よし、われわれも行くぞ』

 軍曹が先頭にたち三人は経塚へ前進した。

 部落の道路は、友軍の戦死体で足の踏み場もない。数十台のトラックは真っ赤になって燃えている。経塚東方約六百㍍の山頂が土煙でかすんでいる。そこが第一線であることを知った。谷藤軍曹ら三人は、ごうにはいり、本隊の到着を待った。

 本隊は夜になって到着した。指揮班長佐藤軍曹の姿が見えない。撫養兵長は胸さわぎを感じ、指揮班の兵隊にたずねた。

 兵隊の話によれば、平町のあの迫撃砲弾の火線で、佐藤軍曹は、左足を失い、手リュウ弾で自決したという。鬼軍曹といわれた人の名に恥じぬ最後。また、軍曹と同時に、沖縄初年兵のシガ二等兵も戦死したと撫養兵長はきいた。勇ましい軍曹と優秀な兵隊。惜しいことをしたー二人のめい福を祈った。

 よく二十八日午前四時、谷藤軍曹撫養兵長、千葉上等兵の三人は、日原小隊長から、大隊本部へ伝令を命ぜられた。

 兵隊たちは、いよいよ、四月二十九日天長節だ、山兵団総攻撃の日がくる、日本本土からは、友軍機がやってくるーと大喜び。

 伝令三人は、みんなに励まされ、大隊本部めざして出発した。敵の砲撃が激しさをます。首里平町でうけた砲撃の何倍もの砲撃だ。進むに進めない。

 夜は明けそめ、次第にあかるくなる。空に米軍機があらわれ、一人の兵の移動も許さないように見張っている。

 三人は、すこしずつ、はうようにして進み、やっと、ごうにたどりついた。なかに石兵団の生存者が数人いた。経塚からここまで約二百㍍。これしか前進していないのに、もう、午後の三時だ。砲弾が激しくて進めないのだ。だが任務がある。勇気を出して前進しようとしているとき、石兵団の大尉が通りかかった。大尉は、谷藤軍曹らの任務を聞きだすと、なかば命令的に『ここから前へ出れば死ぬだけだ。おそらく三人のうち一人も、大隊本部には到達できないだろう。山兵団の総攻撃は、五月四日午前五時に変更になった。ここから本隊に帰って、以上のことを伝えたほうがいいぞ』

 といい、戦況をくわしく説明してくれた。

 三人は引き返すことにした。砲弾は相変わらず激しい。谷藤軍曹の意見で全滅をふせぐため、一人ずつ別々のコースをとって帰隊することになった。

 撫養兵長は、一番近い道をえらんだ。前進同様、後退も容易ではない。午後六時になったが石兵団のごうから百㍍くらいしかさがっていなかっいた。兵長はタコツボ堀り、砲弾をさけていたが、こんなことでは、いつ小隊へ帰れるかわからない。平町でのように、弾着と弾着のあい間をねらって突破してやろう、やられたら、その時までのことだーそう思った。

 目前の道路上に砲弾が続けざまに落下した。(いまだッ!)タコツボを飛び出し、道路を突破しようとしたとき、目の前が真っ赤になって、それきり、意識を失った。

 時間がどれだけたったかー目の前が、ぼんやり見えてきた。(生きている)と思った。すると、左胸部が、焼けヒバシをさし込まれでもしたように熱い。胸から血がふき出ている。服がちぎれ、左腕のわき下からも血がでてる。

 こうなったら、もうどうなってもいいー兵長は、そのまま走り、本隊のごうについた。谷藤軍曹、千葉上等兵は無事到着していた。日原小隊長は、撫養は死んだーとあきらめていたという。

 傷の手当をうけた。迫撃砲弾が、胸部を貫通し、ズキンズキン痛む。この日、吉田長吉一等兵(富良野)は小銃弾を頭部にうけて戦死。吉田静雄一等兵(札幌豊平)斎田一夫一等兵(札幌月寒)吉田幸雄一等兵(増毛町)の三人は砲弾で負傷、野戦病院に後送された。(その後三人の消息は不明である)

 左腕を負傷した撫養兵長は、観測手であったため、左腕をからだにしばりつけて、第一線へ前進することになった。

沖縄戦きょうの暦 6月1日

 米軍、南下開始。

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