地獄絵のなかを進む砲弾が飛来し、ときどき、前進中の隊列のなかでサク裂する。そのたびに、部隊の先頭と後方から
『だいじょうぶかッ?』
『異状ないか?』
と安否を問う叫びがあがる。
『異状なしッ』
その返答に、みんな、ホッとする。あちこちに体内ガスの発生で、不気味にふくれあがった戦死体がころがっている。砲弾のうなり、サク裂音、吹き飛ばされた首なし胴体につまずく。
戦場に出た―おそろしさと、生存者の数より死者が多い―さびしさに、気がめいる。だが、道産子部隊はそんなことはそぶりも見せず、小学生の遠足のような元気さだった。なかには、声高らかに歌をうたう兵隊がいた。
『さらば沖縄よ、またくるまでは・・・』
×× ××
魔の一日橋を無事に通過、部隊は散開隊形のまま、三さ路の右の道を前進した。後退してくる兵隊に行きあう。その話によると、目的地・小波津は、もう米軍に占領されているという。
〈あすの夜から戦闘だな?〉
栗山兵長は直感した。部隊は、山川村の野戦重砲陣地に到着。二十九日の昼をすごすことになった。早朝、野戦重砲が一斉に砲撃をはじめた。小波津南方の我謝部落を砲撃中とのこと。
山川部落の洞穴内では、これが最後の別れになるかもしれない―と、戦友たちはタバコをわけてすい、命令に従って、軍隊手帳、私物品などをドラムカンに入れ、穴にうめた。将校も兵隊の軍服を着用する。身につけていた認識章は、はずして捨てた。(戦争が終わってから栗山兵長は、私物品を埋めた場所を二度さがしに行った。だが、そこは戦場となったため、小高い丘は平地となり、洞穴は馬のり攻撃でつぶされ、一面の荒れ地に変わっていて、草木もはえていなかった。そのため、ついにさぐりあてることができなかった。)
(認識章―それは、直径二㌢くらいのダ円形のシンチュウ板で、部隊番号と個人番号がきざまれていた。戦死後個人確認のため、動員下令と同時に渡され、ヒモで首からさげているものだった。)
〈これを捨てる―いよいよ、さいごだな〉
御下賜品のタバコ、酒をいただきながら、栗山兵長は死を覚悟した。
『おたがいに、さいごまでがんばろうぜ』
『やるべ、やるべ』
あちこちで、戦友たちが手をにぎりあい、死をちかいあっているのをこの世の見おさめのような気持ちでながめていた。
日中は与那原方面でロケット弾、機関銃弾の音がひびいていた。
三十日夜、栗山兵長は一中隊(大野隊)の石田房裕兵長(北見市川東出身)にあった。前線から戻った彼は、左手に負傷していたが、手当てもしていない。
『そんな暇はないんだ。敵は大したことはない。ソ撃兵に注意しろ。それからロケット砲は、射程が二十㍍増でやってくるからな、こいつをよく頭にいれておいて、注意して戦闘しろよ』
前線体験から、以上のことを注意してくれた。
【この中隊の生存者】酒井伝衛准尉(長野県伊那郡西春近村八○八四)尾形正夫曹長(札幌市美園町)刈谷正清曹長(紋別郡滝上町字原野二十)弘中秋雄伍長(上川郡当麻町)佐藤忠勝伍長(美幌町)遠藤秀清兵長(苫小牧市西弥生町六ノ十一)中山栄上等兵(山口県熊毛郡宝積町八七四)原目好治上等兵(茨城県行方郡大和村青沼)栗山登兵長(札幌市苗穂町四十一番地)=以上九人=
戦記係から 砂川市東一北五、木川電気商会の木川なよさんからアルバム作成の一助にお使いくださいと、一千円を同封あいた手紙が届いた。長男英明伍長(山三四七五部隊第一大隊岸隊)は、二十年八月二十日照屋方面の戦闘で戦死。本戦記を読んでいたもので『死亡前後の事情が、はっきりしなかったが、六十八回、六十九回、七十回も項を涙にむせびながら見せていただきました。ほうんとうにありがとうございました。有意義な記事の多いタイムスをながく愛読いたします』と書かれてあった。