安波茶陣地 真っ先に小隊長戦死 戦況打開にきり込みへ

 四月二十八日。山三四七四部隊第三大隊(長・田川慶介大尉)の速射砲中隊(長・加藤一也中尉=白老町字社台)は、仲間部落のとなり安波茶部落(前田戦線)の付近に陣地をかまえ、戦闘中だった。

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 この中隊は、本戦記にはじめて登場するので、ここに至る行動の概略をつづる。 

 当初は、中頭郡嘉手納付近にいたが、その後、小禄飛行場付近に移駐。米軍が上陸し、石兵団に配属されて第一線へ向った。その編成は―

  • 中隊長加藤中尉▽指揮班長佐藤卓夫曹長▽兵器白井源作総長▽被服係佐藤三郎曹長▽弾薬係米花圭三軍曹▽第一小隊長小暮利一見士▽連絡係斎藤一雄伍長▽第一分隊長新田三郎軍曹▽第二分隊長牧田盛夫伍長(生存)▽第二小隊長白石太郎准尉▽連絡係山崎啓一伍長(生存)▽第一分隊長樋口幸彦伍長▽第二分隊長小倉正雄伍長▽弾薬小隊長大谷康雄准尉▽第一分隊長福沢仁蔵伍長▽第二分隊長佐藤宗治伍長 

 第二小隊と弾薬一個分隊は、第三大隊本部に配属になり、部隊は、夜間行動で阿波茶に到着した。

 友軍陣地は、台地の稜線上にあった。左手の西海岸方面は急斜面で敵を眼下に見降ろせる。

 前面・北方は、中頭地区からなだらかな地平線がつづいており、敵の進攻コースになっていた。速射砲中隊は、稜線から二、三百㍍さがったところに墓所を利用して陣地をかまえた。その後、戦況は進んでいなかった。

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 二十八日の朝、白石准尉(第二小隊長)は、敵砲弾のこない時間を見はからい、ごうがわりの墓所から外へでた。分隊長以上に集合をかけ、戦闘要領について指示を与えていた。突然、りゆう散弾が付近でサク裂。白石准尉が倒れた。心臓を破片がつらぬき即死だった。第二小隊初の戦死者が小隊長―という無念さ。隊員は小隊長を埋葬しながら、かたきうちをちかった。

 最前線に第十中隊がいた。そのごうは、山腹にコの字型に掘られ、中央の奥に、垂直に掘りぬいた監視所があった。

 速射砲中隊の第二小隊第二分隊(長・小倉正雄伍長)は、命令をうけ夜間、このごうの入り口に砲(三十七㍉)を備えつけた。対戦車戦闘が目的だったが地形上、効果を発揮できない。敵が攻めてくると、機関銃がわりに、ねらい撃ちするだけだった。砲側には兵二人をおき、監視所から敵情をうかがいながら、全員きり込みの決意をかためていた。

速射砲中隊戦死者九十五人(1)

=敬称略= 山崎瑛峰さん調査(小樽市緑町四ノ八)

 中隊長加藤一也中尉(白老町字社台加藤修也方・五月十七日首里一四○高地で戦死)木暮利一見士(群馬県・四月二十九日首里一三○高地)白石太郎准尉(愛媛県・四月二十八日阿波茶一○○高地)大谷康雄准尉(愛媛県宇摩郡上分町本町・五月二十日首里一四○高地)曹長・佐藤卓史(不明・六月十八日島尻郡糸州)白井源作(深川市・四月十七日首里紅葉山)佐藤三郎(喜茂別町・五月二十日一四○高地)軍曹・米花圭三(小樽市奥沢町六ノ六、米花久信方・五月七日一四○高地)稲船民弘(熊石町字相沼内・三月十日東風平病院)新田三郎(不明・五月十五日一三○高地)伍長・小倉正雄(白滝村字上支湧別、小倉清方・五月二十日一四○番地)樋口幸彦(小樽市源原一六・五月十九日一四○高地)福沢仁蔵(亀田郡銭亀沢字志海苔、福沢江蔵方、六月十九日島尻一六二高地)

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