山1027部隊 忙しい防疫給水隊 陣地構築や切り込みも

 市立小樽病院二○六号室に五月来入院中の村上友之助さん(山一二○七部隊・第二十四師団防疫給水部)の夫人りよさんから二十一日はがきがきた。

 『主人の病気はますます悪化するばかりで、快方に向かうなどとは遠いものになりました。山第一二○七部隊の最後について、主人は気にしております。いまとなっては整理などできませんので、PW時代(沖縄での収容生活)の鉛筆がきの資料をお渡ししたいと申しております。大げさなようですが、いつ逝(ゆ)かれるかわからない時ですので、いそいでください。お願いいたします』

 沖縄での戦傷が、村上さんの寿命をちぢめている。入院前、夫人同伴であいさつにこられた。左眼底ガンの悪化で入院すという。このガンは、昭和二十年六月十九日、金井部隊長(泰清少佐、山一二○七部隊長)はじめ本部要員を山兵団戦闘指令所へみちびく途中、迫撃砲の集中射撃をうけて左眼を失明。その傷あとが悪くなった。病状が進むと、ガンが頭部をおかすようになるかもしれない―と、その時、村上さんがいっていた。

 戦闘はまだ終わらないのか―戦記係は、さっそく見舞い状を書いた。同時に、村上さんはじめ同部隊の人々の貴重な資料にもとずき、防疫給水部隊は、いかに戦ったかを、終わりまで全部書こうと思う。

 しばらく、この部隊のことばかり続くので、退屈される読者もおられるかも知れないが、以上の事情をご理解いただきたい。

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 この戦記の五月三日付け第三十三回に、この部隊の概略と、レプラ患者対策に目をまわしながらも、カメレオンやマングースとたわむれる兵隊の姿をつたえた。

 その後、部隊は中頭郡読谷山ふもとの喜名部落から四㌔南下嘉手納の大湾部落内に移動した。部落は女性ばかりだったので、恋愛ムードがただよった。

 昭和十九年十二月六日、山兵団の移動で、島尻郡東風平(こちんだ)部落西方の西原屋取(にしばるやーるい)に移動。部隊の所属の輜重兵百余人は、切り込み隊要員として、捜索第二十四連隊(山三四七八部隊・長・斎田勇太郎少佐、満州第二九七部隊)に転属していった。越中富山の長谷田少尉は、ヤギヒゲをはやし、沖縄上陸以来、座禅ストで幹部将校連をてこずらせていたが、最後の帰還船で本土へ帰っていった。

 武兵団は台湾移動にあたり、野戦病院二個師団を山兵団にゆずっていった。このため金井部隊は、臨時野戦病院開設の任務をとかれた。

 西原屋取で陣地構築中の金井部隊へ、第三十二軍の高級参謀がやってきた。彼は

 『貴部隊の位置は、島尻中央部にくらいし、もっとも手薄である。米空挺部隊降下の脅威にさらされた場合は、山部隊の運命を決すべく、諸君はよろしく全力をふるってこれをせん滅せられんことを祈る』と訓示して帰っていった。ことばだけはたのもしく、勇ましい。だが、訓示を受けた側の帝国陸軍の実相は、軽機一丁、小銃三十丁の竹ヤリ部隊だった。

 高級参謀がこうだったので、兵隊たちも適当にやっていた。敵機がさかんに空中写真をとる。地上にいて、事態の切迫を感じながらも、少緑飛行場まで十㌔くらいの夜道を走り、ガソリン入りのドラムかんをぬすんできて、くさむらにかくす。夜、点呼が終わると、ドラムかんをかついで大湾部落まで三十㌔くらいの夜道を歩き、部落の人や愛人にあい、夜明け前に出発して朝の点呼にゴールイン。ねむい眼をこすりこすり陣地構築をしていた。

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