師走狂躁曲―浮浪児の巻―

※ 連載「ああ沖縄」を主に担当した記者、清水幸一さんが残した実績の一つとして浮浪児の実態を取り上げた記事がありましたので、以下に紹介します。同時期の北海道で報道されていた記事と比べて特筆すべきは、子どもたちの実生活に迫ったインタビューをおこなっている点にあります。

※ なお、記事内にある俗語の解説は記事末尾に記しました。解説にあたっては北海道立図書館の司書さんにお世話になりました。ありがとうございました。

モサッケル[文章末尾参照]気か 孤独にひがんだ童心

浮浪児は空をゆく雲のように自由だ。ピーエックス附近や三越の裏にいたかと思うと、狸小路や闇市を歩いている。四丁目十字街を映画のなかにでもでてきそうな格好で行く浮浪児の群れは、そのまま昭和のお伽噺である。

雪の降るつめたい日は市役所の中をうろついたり、丸井や五番館へ入り込む――彼らを一定の秩序や規律でしばりつけることは不可能なほどの強靭なものを精神的にも肉体的にも持っている。一人前の浮浪児になるための勉強が彼らを野生的にも半野獣的にもしたのだ。

素肌にだぶだぶのぼろズボン。満足な下着もない上衣。身体の何か所も寒風にふきさらされたままの驚異的なうす着をして、寒そうな表情ではあるが、それでもうろつき歩いている。何時たべるときもきまった時間も食事も持たないのに不思議に生きている彼らは、ごみ箱あさり、もらい、盗みの経済生活をもって生活苦を生き抜いているのだ。

狸小路の某食堂には必ず一人か二人の浮浪児が客の残しものをねらっている。店のことは何でも知っていて顔見知りの客にはもう“ラーメン売り切れたよ”とか“今日のミルクコーヒーは昨日よりうまくない”とか説明してくれる。親切なウェイトレスは綺麗になるまで皿を下げるのを待っていてやるので、この汚れた○い常連の一人加藤義夫君(十四)は「あの人いい人だよ」と奥の女の人を指していた。

灯をしたう鼠のように夜の狸小路をすべって歩いている出町和次郎君(十四)は靴がすりへっているのでまともに歩けないのだ。それでスケートをしているのだが、声をかけると「トバマブイなあ(服装がいいなあ)」と白○のような顔に笑顔をつくる。握りしめていた左手を開いてくしゃくしゃの五円札を出し、これから何かをたべにいくところだが泊まるところがなくて困ったという。

きいてみると昨夜薄野交番の巡査につかまり、琴似の鉱山から来たが泊まるところがなくて困っているのだと嘘をいって、泊めてもらい、おまけに二円貰って今朝出て来たのだが、また夜が来て泊まるところがなくなったものらしい。

また、藤井弘君(十六)は師走の夜も十時すぎ寒さがひしひしと身にしみるので、汚れた顔を汚れたスキー帽で深くつつみ缶詰の大きな空き缶を入れたカバンを肩からぶら下げて“浮浪児小路”とすら異名のある札幌市役所横の軒下にしゃがみこみ、ゴミあさる鳥の心でもしみじみ考えているのか―――捨てにくるのを何時間も何時間もじっと待っている。いろいろな話をもちかけてもごみをあさる方が幸福だと強くいいはる。どこで寝るのかと聞くと、今年は駅にストーブをたいていないので寒くてたまらぬからゴミ箱でねるのだという。

「風がこないから外でねるよりいちばんいいよ。どこのっていうこともないさ。自動車の中でも泊まるし」・・・


夏のころの土方の組に入り、仲間の働けないものを飯場(はんば)の残飯をもらって養っていたが、それが親方に知れて首になった川村琢次君(十六)と久しぶりに狸小路の大衆食堂の前で会った。

「鉱山へ行って働いているんだ。そうだなあ。大分たつなあ。今日は休みだから遊びに来たさ」

この言葉を説明するかのように軍靴と作業服姿であった。むかしなじみか二人の仲間を連れてポケットからお金をつかみ出してはたべ物をあれこれ注文する。もう一人前の大人としてやってゆけるまでに苦労がこの子をはぐくんだのだ。


女の子の浮浪児は首や手を黒くしていても白粉と口紅をつけパーマネントをかけている。集団性のないのが浮浪児の特性であっても彼女らは二人か三人きっと連れだっている。友達に自分のオーバーを着せ、その子のガラスのネッカチーフをかぶって街を行く。

なにかしゃべり合っているのをきくと十四、五歳の少女とは思われないませた口調で、男に夜の十字街で散歩しようと誘われたことについて赤城路子(十四)は話しているのだ。

「たんじゅんではないよ。(じょうだんでないよ)そんな顔に私の顔がみえるの。どこみてあんたそんなこというのっていってやったら、一寸くらい散歩したっていいだろう百円やるからっていうのよ。馬鹿にしているわ。オヒン(お金)のイッコ(百円)ぐらい、わっち顔みてなにべっちゃるの(何いうの)ッてどなってやったら腕つかまえてむりむりキッスしようとするのよ。何するの大通りの真中で、あんんたそれでも日本人ッてむりむり逃げたの。その人、なにこのパンパンガールっていうから、はばかりさま、わっちはね、これでもゴマシはしていませんからね。ちぇッ、ガサいラツして(まずい顔して)モサッケル気か(喧嘩吹っかける気持ちか)やるならやってみろッテいってやったわ。」

クリスマスや年の瀬、やがてお正月も来るので街は賑やかになるが、街のあちこちでモサコケタ(腹へった)身体で歩き廻っている彼ら、ふと美しく飾られた丸井の売店などで絵本や玩具のあれこれを手にして眺めているのをみると、生活のきびしさからおかしく大人びてしまったものの、彼らの童心もまたよみがえるらしい。店頭にならべられた商品に子供らしいまなざしをくれて通り過ぎる浮浪児はどこでどんなお正月をするのやら―――

(清水記者)


[i] モサッケル気(喧嘩吹っかける気持ちか)の意。「もさ」には俗語や隠語として「掏摸(スリ)」「食事をする」「腹」「懐中物品」「文句」「度胸」「万引き」「強盗」「もけごと」などの意味があるという。出典は①『隠語辞典集成15現代隠語辞典』松井栄一監修,渡辺友佐監修,大空社、1997.5,頁140 ②『隠語大辞典』木村/義之編,小出美河子編, 皓星社,2000.4,頁1244-1245

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