だましあい 機雷、実はミソ樽 寄せては返す敵舟艇

歩兵第三十二連隊(山三四七五部隊)第二大隊歩兵砲小隊も米艦隊の陽動作戦のため、山城部落陣地に四月二十七日の出撃まで足止めされていた。以下撫養兵長の手記からー

歩兵砲小隊の弾薬庫の屋根が、ある夜、突然、燃えだした。爆発寸前、大騒ぎをしてけしとめたが、どうもおかしい。―暗夜にまぎれ、スパイが上陸している―といううわさが、もっぱらだったので、多分、歩哨(ほしょう)の巡回のすきをうかがいスパイが放火したのだろう―という結論になった。

四月一日、米軍が上陸し、石兵団が戦っている情報がはいった。島を取り巻く大艦隊の砲撃。空をおおう各種米軍機の銃爆撃。夜は照明弾を、ふんだんに打ち上げ、砲撃がつづく。米軍がこれほどの物量を沖縄に持ち込んでくるとは、夢にも思わなかった。

島を取り巻く艦隊のまわりに小艦艇がアリ山をつついたように黒くなってむらがり、うようよ動きまわっている。それが、みる見る煙幕をはり、海岸線へ押し寄せてくる。水陸両用戦車、上陸用舟艇など百数十隻が、いまにも上陸しそうになりクルッと反転、沖の艦隊へ戻ってゆく。バカにされているようだ。だが、いつ上陸するか、ゆだんはできない。ミソだるを機雷にみせかけ、海岸におく。敵弾を浪費させてやろう―。敵艦は接岸し、しきりに機銃掃射を浴びせる。それが三日もつづく。あきれてしまう。接岸した小艦艇の甲板上には敵兵が姿をみせ、眼鏡でしきりに地形を偵察している。

それでも、日本軍は一発も撃つことができない。第一波を上陸させ、第二波、第三波が上陸すると同時に攻撃開始、全滅させる作戦なのだ。

伝令の私(撫養)が、大隊本部から中隊へ持って帰る一番のニュースは、特攻機の攻撃だ。

「今夜八時、友軍特攻機が、沖縄海上の敵を攻撃する」

陣地の戦友は、みんな山に登り、特攻機の飛んでくるのを待つ、かすかな爆音…。海を埋めた艦船の一斉砲撃。米艦隊の機関砲は、火を吹きつづける。空を切るえい光弾の火線の帯のなかを、友軍機は、おそれげもなく爆弾を米艦隊に投下する。ものすごく大きい火柱―。命中だ。一同、歓声をあげる。

特攻機は夜間も飛んできて海上に五本、六本と火柱がたった。米艦隊の特攻機にたいする砲撃は、まったくすさまじい。火の急流だ。よく弾丸がつづくものだ。その猛射のなかを、特攻機は、ねらう艦隊に、一直線に跳びかかってゆく。―大爆音。船体は二つに割れ、横倒しになる。引き込まれるように海上から船の姿が消える。よくやってくれた―みんなの顔に、悲しげな感情が浮かぶ。

翌日、数人の兵隊が海岸へ出て行った、いろいろ変わったものを持ち帰り、喜んでいる。拾い物の中に食料品もあった。青い飛行服を着た、若い特攻隊員の死体が漂着していることもあった。情報で南下する米軍の状況を耳にしながらも、兵隊は、艦砲、爆撃に慣れ、艦砲が無気味な音をたてて飛来する下で、ゆうゆうと水浴びをする者もいた。

どこに命中しているかもわかる。連隊本部のある高嶺(たかみね)村(そん)に、毎日毎日、艦砲が落下していた。頭上にはトンボ(米軍観測機に日本軍がつけたニックネーム)がついてはなれない。低空で飛んできて、ぼんやりしていると、ピストルで撃ったり、手りゅう弾を投げたりする。

◇                      ◇

これにひきかえ、米軍に近い天久部落の志田上等兵(石兵団)らは、急迫した状況下にあった。以下、四月六日の手記―

爆撃、砲撃がはげしくなった。頭上で花火がサク裂するような音をたて、破片がビシビシ地面につきささる。りゅう散弾だ。新兵器の火炎弾、黄リン弾も飛んで来る。第一小隊の伊藤軍曹

(奔別)と青木上等兵(江別)が伝令にきた。「今夜八時那覇西方山上の友軍高射砲陣地に各小隊から五人ずつ応援を出せ」小隊長岡田准尉が川口伍長以下五人に命じる。午前三時ごろ帰ってきた川口伍長の話によれば、高射砲六門は完全に破壊されていた。偽装のため、皮をむいた松の木に墨を塗り、砲にみせかけてきた―という。

◇                      ◇

戦記係から

手紙、はがきが山積し電話連絡、来客で昼間の執筆ができないほどです。返事をくれないといって怒ってくる人もいます。生き残りの方は、その状況をくわしく手紙にかいて送ってください。取材にこいという方もおられますが、一人ですから行けません。遺族の方は、故人の写真同封のうえ、所属部隊名、戦死日時、場所など、わかるかぎり書いて送ってください。

 

沖縄戦・きょうの暦

4月14日

日本軍は特攻機による菊水三号作戦を開始、百六十五機出動。

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