川島七男中尉 夜襲、一瞬に失敗 特殊眼鏡にねらわれる

二十二時―鈴木中隊長(第一中隊)の軍刀が上がった。砲撃がやんだ。

「突撃ーッ」

中隊長の絶叫。と同時に、敵の自動小銃が一斉にうなった。突撃姿勢の兵隊が、バタバタ倒れる。鈴木中尉以下戦死者数十人。勝敗は一瞬間で決まった。夜襲は完全な失敗だった。なぜか―

米軍狙撃班は、ヤミの中でも見える赤外線透視鏡つき自動小銃を持っていた。彼らは、ヤミのなかの鈴木中隊のほふく前進をこの特殊眼鏡で逐一見守っていたのだ。

第一中隊のあとにつづいていた第三中隊(長・川島七男中尉=札幌)からも犠牲者が出た。両中隊とも、米軍の正確で猛烈な射撃にねらわれ、動きがとれない。二十三時三十分、鶴谷大隊長は、ついに退却を命じた。

後退する間も犠牲者が出る。すこしでも姿勢を高くするとやられる。はって安全地帯までさがった。くやしい―残念で残念でたまらない。鶴谷大隊長の痛憤やるかたない顔に涙が光る。指揮官も兵も、無念さに歯をくいしばり、泥にまみれた顔で泣いていた。

日本軍司令部は、首里前線の防衛が危機に直面することをおそれ、二十二連隊を増強、米軍の撃退をはかったが、さしむけられた二十二連隊は地形、敵情を知らなかった。偵察をじゅうぶんに行ない、自信をもって攻撃したのではない。そうする時間がなかったのだ。無理な夜襲であった。無謀だった。

いったん攻撃出発点まで戻った第三中隊は、負傷兵収容のため、ふたたび一六五高地へ帰った。責任感の強い、ヒューマンな川島中尉は、札幌商業の十七期生。同窓の大久保清彦氏=札幌市澄川十二番地=は、中尉の札商時代をしのんで次のように述べている。

「川島君は、淡泊な男らしい人だった。弁論部員として活躍し、応援団副団長もやり、りっぱなリーダーだった。同級生は彼について、それぞれの美しい思い出をもっているだろうが、惜しい男をなくしたと思う」

戦後、南上原の部落民が戻ってきて、一六五高地一帯に散乱する遺骨を集め、糸(いと)蒲之塔(かばのとう)を建てて供養したが、住民の涙をさそったのは、遺体の大半が、銃をにぎりしめたまま白骨となっていたことだ。

記者は、沖縄滞在中、この地を三回訪れた。写真部から苦情をいわれるほど写真をとった。別に映像としてすばらしいものがあったわけではない。いつ訪れても、一面の雑草が風にそよぎ、中城湾の波が光っているだけ。塔のコンクリートブロックのなかは、白骨でいっぱい。生き残りの今井要氏は「あけてはいけません」という。好奇心からではない。赤ん坊の寝顔をのぞく父や母の気持ち。きっと、わが子を沖縄で失った本道二万余の父や母は、ここにきたらこうするだろう。記者は、札幌神社で、細木芳郎氏(音更)が、くんでくれた水を、塔にかけ、お骨にかけ、心からめい福を祈った。

最初に訪れたときは、札幌南六西十二からお嫁さんにきた旧姓佐藤須美子さんと主人の島袋哲氏、今井氏がいっしょだった。島袋氏は琉球政府家畜衛生試験場の技師で何度も渡米しており、須美子さんは沖縄タイムス文化部勤務。今井氏は、戦友の多くを失った沖縄をはなれることができず、護国神社に勤めて遺骨収容、遺族の世話、沖縄戦の調査、慰霊祭施行などの業務に没頭している。

おまいりをすませた島袋須美子さんが、塔のそばの草むらをのぞいた。なにかあるという―というので、今井氏とそばへ寄ってみた。敵弾をさけようとして掘ったゴウが、草に埋もれており、底のほうに日本軍の将校用水筒が一つころがっていた。新品同様、どこも痛んでいない。今井氏は護国神社に保管してある遺品のなかに加えたが、そこにはさまざまなものが集められていた。

さびついた女持ちの金側腕時計、アルミニウム貨、小銃弾が五発つらなったまま、薬莢(やっきょう)を飛んできた小銃弾に切られたもの。使用可能の曹長刀。同じく白骨が握りしめていた小銃。一㍍四方くらいの米艦砲弾の破片、小銃弾で穴だらけになった飯ゴウ、その他さまざまなものが保存されていた。

記者もまた、激戦地八重瀬岳のどうくつで、かけたスズリとサカズキをひろった。酒が好きで、筆を持つのが商売の記者に、沖縄の英霊がプレゼントしてくれたように思えてうれしかった。

持ち帰ってはいけないのかもしれない。しかし、そのスズリを社会部の机の上におき、この戦記を書きつづけている。

たぶん、きょうも、あの一六五高地のうえに風が吹き、草がゆれていることだろう。

 

沖縄戦きょうの暦

4月17日

米軍は首里前線に向かい血みどろの前進中。ガン強な日本軍の抵抗に遭遇した。第五艦隊司令部スプルアンス提督は、特攻機の攻撃に弱り、九州、台湾飛行場攻撃を進言した。

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