弾雨の中を ゴウからゴウへ 逃げ惑う沖縄の人びと

当時、沖縄住民はどんな状況だったか―。冨里誠輝氏=コザ市字胡屋三五=の「沖縄戦避難日記」から、そのあらましをうかがおう。

【四月二日】日中、一歩も外に出られない。ゴウのなかで過ごす。同僚教員の大半は召集された。いまや、みずから前線にはせ参ずる時だと、午後六時、まる警防団長呉屋奉仁さんのゴウをたずねた。彼も賛成、二人で上原へ向かった。

のぼりつめた上原の山頂一帯は石兵団の陣地で、猛烈な艦砲の集中砲撃にさらされている。しきりに赤黒い火が飛びかい、一帯は火の海。二人は、低地にかくれて見守っていたが、火勢がだんだんはげしくなり、ついに頭のうえまで火が迫ってきた。恐ろしくなった二人は、一気に坂を駆けおり、あす行く相談をして、それぞれのゴウに戻った。

夜の十二時、ゴウ内に安室教頭、新垣先生、比嘉校長がきた。牛島中将のいる首里が安全だということになり、安室教頭、比嘉校長、喜久村校長の三人が出発、私も新垣先生から、しきりに首里行きをうながされるが呉屋団長との約束があるのでぐずぐずしていた。

やっと午前五時ごろ二人で出発したが、上原部落に着いたとたん、グラマン機の攻撃を受けゴウに逃げ込んだ。

【四月三日】一日中の爆発音に耳を傷め、恐ろしさで背筋は堅くこわばったまま。顔なじみの兵隊が敵の進撃はものすごく早いから近日中に、この付近一帯は激戦場になる。早く首里から島尻方面へ避難したほうがいい―といって陣地へ姿を消した。

午後六時、新垣先生と首里へ向かった。艦砲弾がドカンドカン二人の身辺でサク裂する。いつ吹っ飛ばされるか、通過する余裕がないので見当もつかない。二十㍍くらい先の道路ぎわにサク裂した。クワッと、ひとかたまりの火をつつむようにして黒煙が渦を巻き、そのなかをものすごい勢いで土や石が飛び散り、強く根を張ったススキのひとむらが瞬時にして消えた。

ころげるようにして新垣先生が伏せた。サク裂のゴウ音がつづく。私たちは完全に砲火のなかにとじこめられた。恐怖の神経が背筋を走り、踏みしめる足の感覚が、まったくない。心を静めようとつとめるのだが、サク裂する砲弾が許さない。音が聞こえてからではおそいよーといっても、新垣先生は、そのたびに地面にはいつくばる。

上原はまったく難所だった。気もそぞろで通りぬけ幸地部落まできた。行く手の弁が岳、首里方面は砲撃のため黒煙につつまれている。日は暮れ、山々に弾着する火の線が美しい。だがこれ以上進む勇気は火となって飛ぶ砲弾のすさまじさにくじかれてしまった。

竹ヤブのなかに仮防空ゴウを見つけて飛び込んだ。なかに新品の軍靴(ぐんか)がいっぱいあるのでビックリした。今夜のうちに首里まで行ったほうがいいと言ったが、新垣先生が聞きいれない。ヤブカにくわれながら寝てしまった。

【四月四日】目をさましてみると、屋敷内のカワラ屋根が砲弾で三分の一くらい吹き飛ばされている。寝ているところをやられたら、痛くもこわくもないだろうなあ―と新垣先生は寂しく笑った。首里はあぶない。そぼ降る小雨のなかを反対の伊集部落へ向かった。途中、主のいないゴウで雨やどりする。

一家四人の避難民もはいってきた。子供は、なんの恐怖もないかのように声高くしゃべる。すると父親は真顔になって、アメリカの飛行機は声の聞こえるところに爆弾を落とすぞ、だまっておれと子供をたしなめた。

午後六時、腹をへらして伊集部落についた。新垣先生の家も無事。部落は山すそにあるので被害を受けていない。先生の親せきの家でヤギ汁と豚肉のごちそうになる。隣屋敷の裏では石兵団の兵隊とモンペ姿の女子挺身隊員が豚の丸煮料理をこしらえていた。

そこへ、一人の婦人がかけこんできた。兵隊さん、たのむから早くこの手を切って…と泣き声で左手をさしだした。手首から先がわずかに皮でつながれ、血がたれている。みんなどうすることもできない。軍医に処置してもらったほうがいいということになった。

私たちは首里へ急いだ。午後九時ごろ、南上原東部の高地頂上のゴウにはいり、艦砲と小雨をさけた。きれいに草がしいてある。だれか、さきにはいった者がしいたのだろう。夜間になって、艦砲射撃は、ますますはげしくなった。とくに幸地、首里方面に盛んに弾着、ひどくやられているようだ。

ゴウは狭くて窮屈だったが、心身両方の疲れで、ぐっすり眠った。あすの朝は、安全な首里のゴウにもぐり込める―そんな安心感もあった。

 

沖縄戦・きょうの暦

4月18日

伊江島で米従軍記者アニー・パイル戦死。日本軍は本島西海岸で米軍に押され東海岸では撃退。

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