逃避行 死角から死角へ 五キロの道行ったりきたり

◇冨里日記つづき

【四月五日】未明、南上原の山ろくづたいを棚原へ向かう。昨日来の小雨はまだ降り続いている。切りたったガケの下からモウソウ竹が勢いよく伸びているところへ出た。

敵の攻勢からは完全な死角。一息いれようと腰をおろした。そのとき不意にガケ下の高地から、あわただしい機関銃の音が聞こえた。二人はあわてて、しゃにむに逃げた。聞きなれている友軍の攻撃ではあったが…。

上空にはグラマン、カーチス観測機が入り乱れて飛んでいる。低空を飛んできた観測機の操縦士が、小さな爆弾のしっぽをつかみ、私(冨里)たちをめがけて、落とす構えをした。

やられる―と息がつまった。彼は、私たちが兵士でないので見くびったらしい。落とさなかった。畑のあぜ道から何回となく水田へ足をすべらし、キビ畑をさまよい、川に飛び込み、ほうぼうのていで西原国民学校の近くまで逃げた。

背負った米の重みで肩がめりこむように痛い。同じところを行ったりきたり、津覇から五㌔ほどのところを、いまなおさまよっている。

翁長部落の前で、数発の艦砲が一斉にサク裂、ふたたび進路をはばまれた。弾着の合い間を見はからい、川にそって部落まで一気に走った。首里郊外の山の裏側で休む。ここは死角なのでずぶぬれの服を脱いで木の枝にかけ、かわくまで待つことにした。

午後六時、首里へんさの森に着く。武兵団がつくった、みごとな高射砲陣地だったが、いまは住民の避難場に使われている。森のすそを掘り、内部は高くて広いすばらしいゴウ。約百五十人の避難民がいた。戸板を並べ、その上にワラを敷き整然と休んでいる。中城(なかぐすく)方面の住民が多い。知人、友人もいる字奥間の知念叔母さんに夕食のぞうすいをお願いした。空腹のあまり、二食分の飯を、一回にたいらげてしまう。

夕方、飛弾が少なくなると、ゴウの前を出歩く人がたくさんいる。兵隊の姿も多くなった。そのころすばらしい情報が流れた。一帯はたちまちにぎやかになり、人々が大喜びだ。戦争はあと三日で終わる。帝国艦隊が出動し、敵艦隊を包囲せん滅中である―眼前に見えるあの艦隊は、わが艦隊にかこまれ、逃げ場を失いそのまま捕虜になるそうだ…。みんな歓声をあげた。

「あと三日だ。わずか三日なら水だけで、がまんしようじゃないか」

行きすぎる兵隊も元気そうに語りあっている。私は、目頭があつくなり、胸が高鳴った。感激と興奮―ああ、ついにきたるべきものがきた。無敵艦隊は、とうとう出動、決戦をいどんだのだ―。

命からがら逃げまわったが、やっと大勢の人々にめぐりあいがんじょうなゴウにいて生命も安全、そこへ、すばらしい軍情報だ。うれしくれて眠られない。

なかには「そんなことあるもんか。単なるデマにすぎんよ」と、鼻であしらう者もいたが…

【四月六日】

朝から空爆、艦砲がすごい。終日ゴウ内。夕食のあと新垣先生と南上原へ移る。道すがら堂々たる皇軍部隊に何回となく出会う。ゴウゴウと第一線へ向かう戦車群。

歩兵たちは、声高く語りあっている。「石兵団が敵をかたずけてしまわないうちに、早く行かねば、われわれのする仕事がなくなる」

たのもしい、うれしい気持ち―戦列へ加わる山兵団の移動であった。

南風原街道へ出たあたりから艦砲弾のうなりが気味悪くひびいてきた。飛んでくる弾丸に余インがない。いきなり、周囲でサク裂する。道路上に兵士が二人倒れているのを見て、ギクッとした。

午後九時、国場川を渡った。喜屋武部落付近の防衛隊のゴウにつく、入り口に弾丸よけの米俵を積みあげてある。出口は四方八方にあり、数十㍍もつづき、全部が一つずつ小隊のゴウになっている。兵士が、両方の壁ぎわに背をもたせてすわり、五㍍おきの洋ランプが、陽気な兵士たちの顔を明るく照らしている。

土質はゆるく、落盤個所もある。直撃弾に耐えるかどうかは疑問。しかし、湿り気は全然なく、衛生的で住み心地は極上。中隊長は儀間先生、小隊長は久場先生、衛生班長は仲間先生というメンバー。隊員もみな中城村出身で知人も多い。ことに、津覇出身の知人たちはみな快活で、冗談がうまい。みんなをさかんに笑わせ、戦勝の士気高らかだ。

私も、きのうまでの苦しい逃避行から解放され、晩おそくまで楽しく語りあった。

この付近一帯の地形は、起伏のゆるい丘。全体が密集した砲兵陣地だった。

 

沖縄戦・きょうの暦

4月19日

米軍は第一次総攻撃開始。日本軍は、宜野湾、嘉数高地正面で米戦車群を撃退。米軍は浦添第一線左翼陣地を突破。

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