勇ましい女子義勇軍 道産子を励ます 別れの宴で勇気百倍

十三日の夜襲に失敗した歩兵第二十二連隊第一大隊(鶴谷大隊長)のことは書いた。

首里へ向かった第三大隊(田川大隊長)第十一中隊(木口大尉)の動向を、生存者の長浜慶治上等兵(赤平市茂尻旭町五条四号二舎)の手記からみよう。

第十一中隊は小禄飛行場の海岸線に面した一帯に布陣、海軍根拠地隊との共同作戦下にあった。二十年三月二十三日以来、昼間は米軍の艦砲、空襲をさけてゴウ内にひそみ、夜間作業で地雷を敷設した。作業中小石勝男一等兵(北海道)が戦死した。海軍は、空を覆っている米軍機を、高射砲や機関砲で撃たず、その砲門を全部水平にして海へ向け、米軍の上陸に備えていた。

四月一日、米軍上陸の報がはいった。中隊は相変わらず陣地固めを継続していた。むだな作業だったんだが……

二日の夜、遠く北方の嘉手納海上一帯が昼のように明るい。米軍が、半年分の食糧、弾薬を荷揚げしていると聞いて、みんなあきれてしまった。分隊長松川春雄伍長(北海道)が、つぶやいた。

「いよいよ、覚悟しなければならないなあ…」

みんな死ぬんだ―戦友たちの顔を見回した。さびしそうな笑いを浮かべている。思いは同じらしい。

五日午前九時ごろ、海上からわが陣地めがけ、一隻の米軍舟艇が進んできた。船は六百㍍ほど前方で止まった。分隊員一同「撃て」の号令を待った。見守る舟艇…米兵が四人、甲板に現われた。号令が、かからない。米兵は、ゆうゆうと海の深さを計りはじめた。いまか、いまかと待つところへ「撃つな」の命令。地だんだ踏んでくやしがる戦友たち―。

陣地内には砲台が二か所あった。大本営の作戦とはいえ、敵船を目前に一発も撃てない。飾り物のような大砲のそばで海軍の兵隊が、くやし泣きに泣いていた。

六日午後五時ごろ、すごい爆発音がひびいた。いつもと違う。陣地から飛び出し、音のした海上を見た。大きな火柱が立っている。米巡洋艦がゴウ沈するところだ―と海軍さんが教えてくれた。みんな、おどり上がって喜ぶ。

船体がすっかり沈むまで約四分。あとに爆発時の煙だけが漂っている。たちまち、付近に散らばっていた米艦船が沈没個所にまるく集結した。その早いのにも驚く。六日までの戦死者は三上俊治一等兵(函館)笹田一夫上等兵(胆振支庁管内)。

四月十二日、首里前線へ出動下令。朝、いままで苦労をともにしてきた海軍部隊の人々と、ささやかな別れの宴を開く。部落の若く美しい女子義勇軍が五、六人連れだって激励にきた。道産子の兵隊は感激し、勇気百倍、大いに張り切った。

「これから嘉手納へ行って、米軍をみんな海の中へたたきこみ、追っ払ってやるぞ」

女子義勇軍の娘さんたちは、まあーすばらしい、と、いうより先に、目の色に胸の思いを浮かべた。道産子の兵隊もロマンチックになった。

そして、「やがて平和な時がきたら、こんな焼け野原は捨てて、雪の降る北海道へ一緒にいくべよ」

「ほんとうに、早くそうなればいいわね」

娘たちも、兵隊も、そんな日は、もう再びないことを、知っていた。うつろな会話。ひとときの感傷…娘たちも兵隊も、それをかみしめていた。分隊は各陣地を引き揚げ、第十一中隊として一カ所に集合した。

「山」「川」のあいことばを伝達され、木口中隊長以下全員、食糧少々と十㌔の箱爆雷を背負い夜行軍を開始した。

敵弾が猛烈で前進がはかどらない。夜の明けないうちに、早く昼の敵弾をさける隠れ場所を捜さねばならぬ。はなれ馬が、あちこちにいる。つかまえて食糧、弾薬を積みヤミのなかを急いだ。どこを歩いているのか、さっぱり見当がつかない。

焼けあとについた。首里だという。ルーズベルトが死んだ―と聞かされた。―いいあんばいだ。親玉をなくした敵は、戦争をやめるのじゃないかなあ―ちらっと、そんな考えが頭のなかをかすめる。

首里から北へ三㌔ほどの仲間部落に陣地をはる。最前線にきたことを、ひしひしと感ずる。近くに戦死体があるのだろう、いやな死臭がヤミの中からにおってくる。もう、いままでのような心の余裕はまったくない。

逃げまどう部落民、後退する負傷兵の群れ。そんななかにも女子義勇軍が「兵隊さん、おたがいにがんばりましょう」と叫び、手を振りながら、兵隊の先になって進んでゆく。女に負けてなるものか―道産子部隊は勇み立った。

 

沖縄戦・きょうの暦

4月23日

二十三日漬けニミッツ軍司令部公報は、「沖縄島南部においては、日本軍の抵抗激烈のため、戦線は進捗せず、何等特記することなし」と発表、日本軍の猛攻撃を認めた。

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