住民も戦った 感ずる重大な任務 『使役』の名目で漁夫6人

沖縄の住民は、男女を問わず戦闘に参加し、勇敢に戦った。その戦いぶりを四月九日付け志田手記から――

神山島(那覇西方海上五㌔)からの長距離砲の砲撃が日本軍には痛手だ。軍司令部のある首里高台一帯が、夜昼なしに猛砲撃にさらされている。この長距離砲二十四門を破壊するため、船舶工兵第二十六連隊の奇襲攻撃が、九日夜敢行された。

と書いているが、この真相を沖縄タイムス社の調査を資料としてつづってみよう。

島尻の真壁村古波蔵(こはぞ)に、船舶工兵隊のゴウがあった。六日朝、ゴウにいる現地防衛隊員のなかから海に経験のある者六人が使役の名目で呼び出された。六人に毛布と二日分のカンパンが渡された。彼らは糸満漁夫だった。国吉の船舶連隊本部へ連れてゆかれ、中隊長の訓示を受けた。任務の内容はわからないが、単なる使役ではなく、なにか重大な任務を与えられようとしていることを感じた。

金鵄(いまのバット)を二箱もらった。氏名を記録され、大里部落(高嶺村)まで二㌔ほど歩いた。そこで下士官引率のもとにトラックに乗り北上した。小禄近くの真玉橋部落に着いたのは午後六時ごろ。海上特攻第二十六連隊があり、兵舎にはいった。各地の防衛隊員がたくさん集められていた。

長いテーブルが準備され、酒や料理が出て、会食がはじまった。恩賜のタバコを一本ずつ手渡された。一人の下士官が白はち巻きをしめ、軍刀をふるって盛んに気合いをかけている。兵隊が、防衛隊員に一人ずつ白ダスキをかけて歩き出した。全部かけ終わると、隊長の訓示が始まり、任務が、初めてわかった。

神山島の米軍砲兵陣地に切り込みを行なう。今晩、ただちに出発―西岡少尉指揮。クリ舟十隻。一隻にこぎ手が一人と兵三人が乗り込んだ。

九時半出発の予定で、那覇港口近くの南明治橋たもとの岩かげに待機することになったが敵の艦砲が激しく、各舟とも待機場所へ進めない。そのうち、先頭の一隻に砲弾がサク裂、乗員がやられた。

西岡少尉は、決行不能と判断、次の指示をうけるため、真玉橋の連隊へもどった。連隊長は怒髪天をつく勢いでどなった。

「バカどもッ!今晩中に、ただちに決行しろ。いったん出て行って、おめおめ帰ってくるやつがあるか。司令部には、もう、今夜決行と報告しておるのだぞ、帰れッ」

少尉が南明治橋についた時は午前五時半。ピストルを部下に渡し「撃ってくれ」といった。第二小隊長が「隊長、もう私たち隊には帰れません。今晩できなければ、あすの晩、あくまでも目的を完遂しましょう」と慰めた。

夜が明けると、ヤケ気味の西岡少尉は、企図の暴露も空襲もおそれず、九隻のクリ舟をならべ那覇港内を三回も往復して上陸演習を行なった。だが、この晩も、米艦船が港口にいて出られなかった。

三日目の午後八時。西岡少尉の鳴らすベルの音が低くひびき九隻のクリ舟が一斉に発進した。海上には障害物もなく、企図も見破られず、午前一時ごろ神山島到着。第一小隊、第二小隊と砂浜にとびおりた。

このとき、なにを思ったのか西岡少尉は信号弾をあげてしまった。決行前だ。三分とたたぬうちに、雨のような機関銃弾が集中した。防衛隊のこぎ手たちは死にものぐるいで舟を島から遠ざけた。島は照明灯で明るくなった。こぎ手の視線に、切り込み隊員が黒い小さなかたまりとなって敵陣へ突入して行くのが見えた。

島は直径三百㍍の浮州。爆発音や銃声がひとしきりひびきわたり、やがて、静かになった。こぎ手たちは、西岡少尉から、三十分後に、舟を海岸につけておけと命令されていたので、二隻だけ海岸につけた。生存者は西岡少尉以下わずか五人。少尉は連隊へ戻り、つぎのように報告した。

「重砲三門、重機二丁破壊、人員殺傷多数」

決行前に、なぜ西岡少尉は信号弾をあげたのだろうか。そのため発見され、防衛隊員をふくむ戦死者二十二人を出してしまったのだ。

少尉が、部隊で命令をうけたのは、三日前である。三日たっても、神山島からの砲撃がやまない。連隊や司令部では切り込み隊の行動に疑惑を感じているだろう。事の成功、不成功よりまず、神山島に到着したことを知らせよう―そう考えたのかもしれない。

 

沖縄戦・きょうの暦

4月24日

この日から連日の降雨。米軍の進攻作戦は停滞気味。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です