平野大隊の戦闘① 遠くトリの声 夜襲前の平和な一瞬

山三四七四部隊第二大隊(平野大隊長)は首里東北部の弁ヶ岳めざして前進していた。指揮班長田中松太郎曹長(広島村)は、首里付近を進みながら守備の球兵団将兵の表情から、あることを読みとった。あたりには軍司令部直属の球兵団各部隊(野戦病院、衛生隊、兵器、弾薬、糧秣の各補給部隊、野戦重砲兵部隊、高射砲部隊、電波探知機部隊、軍通信部隊)がいた。

彼らのごうが、あちこちにたくさんある。対空ごうだ。彼らは米軍機に発見されるのがおそろしい。ごうの前の道路を、歩兵部隊が通過するのさえ上空からの攻撃目標になるので、普通ならきらう。まきぞえになりたくないのだ。死を、常に目前にしている戦場では、エゴはどぎつい。ところが、いま、ごうから好意的な見送りのまなざしを送り、その視線からは、無言の励ましさえ感ずるのである。なぜか?―

彼らは、ごうの前を後退してゆく石兵団負傷兵の悲惨な隊列を見ているのだ。そのうえ、彼らは牧港(まきみなと)我如古(がねこ)南上原(みなみうえばる)津覇(つは)のがんじょうな石兵団陣地が破壊され、第一線が後退していることも聞いているのだ。石兵団が敗れれば、彼ら・球兵団が、第一線になる、彼らは、それを心配している。いま石兵団の激戦地へ補強されるわが北海道部隊に好意をもつのも、戦場のエゴイズムからなのだ。―田中曹長には、それが、よくわかった。平野大隊は、弾幕のなかを進み、各中隊ごと弁ヶ岳の周囲に、対空しゃへいして陣地をかまえた。

十一日、平野大隊全員が、石兵団の歩兵第六十三旅団(旅団長・中島徳太郎中将)に配属になった。

第二大隊長平野茂雄少佐は、旅団司令部で、我如古方面の友軍の配置状況、地形、敵情などについて説明をうけた。我如古の東南一㌔に石兵団の右翼陣地・南上原(みなみうえばら、または、みなみせんばる)がある。南上原陣地が、敵中に孤立しているから、これを死守せよ―との命令をうけた。

十一日夕方、平野大隊は、弁ヶ岳を出発した。雨雲が低くたれこめ、米軍機も少ない。弁ヶ岳から二㌔北上して幸地(こうち)部落さらに一㌔北上して棚原(たなばる)部落についた。めざす南上原は東北一㌔の地点にある。

棚原部落の北方に小高い丘があり、その丘の北側に米軍がいる。米軍に面したほうは、急斜面で、丘のうえに立つと、攻撃してくる米軍の状態が一望のもとに見下ろせる。丘の南側は、なだらかなくだり坂で、首里までの距離は四㌔。頂上からくだり坂を百㍍ほどおりたところから、部落が、下のほうへ階段のようにならんでいる。斜面にへばりついたような各家々は、ヨウジュ、タチバナ、シノ竹でかこまれており、部落全体が、南画のなかの世界のように風流である。戦火に焼き払われ、新しく復興したいまも、オヤ?と目を見張るような風雅な構えの家が、点在しており、部落の伝統は失われていない。戦争中からの村長さん城間勇吉さん(五三)と奥さんのツルさん(五〇)が、西原村字棚原二七六番地にいる。沖縄旅行の機会があったら拝見するといい。

四月十二日朝、棚原(稜線)台地の第六十三旅団戦闘指揮所に平野大隊長以下曹長以上の幹部が集合した。旅団参謀から敵の状況を、石兵団第一線部隊の戦闘状況を聞きながら、田中曹長は、今夜の夜襲決行を胸の中で考えていた。視線を転ずると、人影は全然なく、死んだような部落。茂みのあちこちに、部落民が作ったらしい稚拙な防空ごうが、黒い口をあけ、その付近にも人影はない。ギラギラまぶしい南国の日ざしが、部落民や馬の死体が散乱した路上、人影のない農家、濃緑の樹木、のびるだけのびた草はら、砂糖キビ畑の上に、光った油でもかけたように輝いている。

空襲、艦砲が、きょうは一段と強くはげしい。たえまない爆発音―それがふと、とだえる時間がある。十数秒。いやもっと短いかもしれない。真空の時間―そのなかへ、しのび込むように、遠くニワトリの鳴き声が聞こえてくる。平和だ。この激戦も、今夜の決死の夜襲も、まるで別世界のできごとのように思えてくる。

コッコッコ…コッコッコ…無心なメンドリの鳴き声。のどかだ―と感懐が浮かんだ瞬間、反射的に田中松太郎曹長は、死の準備にとりかかった。ノモンハンの激戦場でみがきあげた生と死に対する鋭い感覚である。

札幌から持ち歩いてきた広辞林、コンサイス、ウェブスター辞典、その他、今夜の夜襲に不必要な私物品いっさいをすてた。

 

沖縄戦・きょうの暦

5月4日

日本軍総攻撃。船舶工兵部隊は、米第一海兵師団の背後に逆上陸して全滅。

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