山1207部隊 最初の敵、レプラ 逃亡患者に手を焼く

第二十四師団防疫給水部(山一二〇七部隊)が、一番先にぶつかった敵は、米軍ではなくて、沖縄のレプラ患者だった―だが、その話は、あとまわしにして、この部隊のアウトラインを描こう。

十九年七月六日満州林口で動員下令。東安、宝東の陸軍病院、歩兵第二十二連隊などから衛生兵、本科の兵隊が転属してきて、十日、動員を完結した。任務は、甲号戦備発令の場合、部隊任務遂行のかたわら、患者収容隊を編成せよ、というものだった。

【編成】▽部長 金井泰清軍医少佐▽副官 額田秧(さなえ)中尉▽薬剤 石黒英次薬剤中尉 ▽経理 高島忠四雄主計中尉▽第一中隊(防疫隊)長 新堀大尉▽第一小隊長 土佐准尉▽第二小隊長 武内少尉▽第二中隊(給水隊)長 黒沢中尉▽第一小隊長兼務、患者収容隊長 藤井准尉など二百六十余人。

このうち現在までに、戦記係に連絡のあったのは、村上友之助さん(小樽市真栄町畑十三)己扇正幸さん(千歳市春日町二丁目)藤沢克己さん(苫小牧市勇払一区)の三人だけ。小樽の村上友之助さんは、昭和十九年七月十二日の夜ふけ、歩兵第二十二連隊(山三四七四部隊)四千数百人が、部隊長田中幸憲大佐に引率されて出発してゆく姿を見送っている。

五日後の十七日未明、山第一二○七部隊は移動を開始し、西東安駅に集結。山第三四七六部隊(歩兵八十九連隊)の指揮にはいった。貨車で北満図們(ともん)付近を通過のとき、サイパン玉砕の報を村上さんは耳にし、胸を痛めた。釜山に着くと、まちのあちこちに、東条内閣総辞職のビラがはってあった。連絡船で博多港着。

七月二十六日、山第三四八〇部隊(野砲)の指揮にはいる。博多から門司に移動。門司港で沖縄行きを知る。乗船して八日目(八月七日)那覇港上陸。那覇市松山町の市立高等女学校に二泊後、中頭郡読谷山村喜名(きな)部落へ向かう。

山一二〇七部隊は喜名県道から五百㍍ほどのくぼ地に幕舎を張った。当時、山兵団は野戦病院をもっていなかったので、臨時野戦病院の設立を命令され、第一野病を喜名国民学校に、第二野病を、嘉手納大湾古堅国民学校に設立した。また黒沢隊を石嶺久得に派遣、山三四八〇部隊の指揮下にいれ、生息ごうの構築を命じた。

山一二〇七部隊員は、門司港で乗船前、金井部隊長から沖縄行きを発表され、速成で沖縄の風土病フィラリアやレプラの予防法、ハブにたいする救急処置の講習をうけた。

レプラについては、村上さんは、満州の陸軍病院で、生涯、飼い殺しのうきめにあっている兵隊がいる―という話を聞いていた。はじめは、鼻、耳、手足の先がくされ、だんだんひどくなってからだじゅうが、くされてくずれる―背すじが寒くなるような話だった。

山兵団が駐とんした中頭郡地区一帯にも、レプラ患者が散在していた。これを捜して収容せよ―と命令された。容易なことではなかった。

最初は、県の患者調書によって患者をつかみ、その家に赤旗をたて、患者の家に兵隊が接近することを厳禁した。ところが外部症状のないレプラ患者は、野ら仕事をしている。道産子の兵隊は、人なつかしさから、患者とは知らずに寄って行き、話をしたり、ものをもらって食べたりした。

これでは、なんにもならない。大急ぎで、患者を東海岸の海上二㌔の小島に移した。

ここには、もともと、県立レプラ患者収容所の後楽園があった。しかし、患者たちは、孤独な環境をきらい、ひき潮になると、腰までしかない海中を、歩いてわが家に戻ってくる。それを発見し患者をなだめすかして、また送りかえす。こんなことをなんどもくりかえした。

その結果は、以前どおりだった。レプラ患者は、防疫給水部隊の知らないうちに逃げ帰り、あちこちにかくれていた。もうどうにもならない。

防疫給水部隊としては、赤旗の様式を厳重にして、兵隊は、絶対に患者の家に立ち入らないよう訓令を発した。これで山一二〇七部隊の任務は終わったのではなく、病理検査を行なうよう、しばしば命令をうけた。師団唯一の衛生部隊である。金井部隊長以下二百六十余人は、連日、目の回るような忙しさに、普通なら過労で倒れていたはずである。

ところが、道産子の兵隊たちは、疲れもみせず、たのしそうに、元気いっぱい活躍をつづけていた。道産子たちは、木の茂みをチョロチョロはい回るカメレオンをとらえ、シッポをつかんでグルグル振り回し、目をまわしたカメレオンのキョトンとした表情に笑いこけたり、マングースを、残飯をえさにしてとらえたり、エビやフナを釣ったりして、北海道の自然児らしい日々を、多忙な軍務の合い間にたのしんでいたからである。

 

沖縄戦・きょうの暦

5月3日

夜、船舶工兵二十六、二十三連隊、東西両海岸から逆上陸を敢行

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