斎藤ラッパ手 死ぬなら中隊と 重傷の身、後退こばむ

佐藤手記 六月十六日、摩文仁に集まった残存兵力で、最後の突撃を決行することになった。命令を各分隊へ伝えるため斉藤政五郎上等兵が選ばれた。函館出身の明朗なラッパ手で、応召前は外務省に勤務していたといっていた。

私(佐藤)とは大の仲よしで最後の突撃ラッパを吹いてから死ぬんだと、元気よく勤務していた。

斉藤伝令は、その日任務を終え、海岸の岩壁づたいに帰途をたどっていた。右前方で迫撃砲弾がサク裂。破片が右腕に当たり骨折した。勝ち気な斉藤上等兵は、右手をブランとさげたまま陣地に戻り、中隊長に帰還報告をした。

私(佐藤)は、とりあえず、止血帯をしてやった。それ以上の手当をしてやりたいにも、衛生資材がない。軍医のいる位置まで後退をすすめた。斉藤は決然たる態度で「自分は、中隊の位置で、中隊長や中隊のみんなと一緒に戦死する。佐藤、オレをこのままにしておいてくれ」

といい、その場を動こうとしない。顔からみるみるうちに血の気がなくなり、苦しみだした。しまいには、右腕を軍刀で切り落としてくれといいはじめた。しかし、それも資材がないのでできない。

艦砲弾がサク裂した。土砂と硝(しょう)煙がおさまって見ると、斉藤は破片創をうけ、岩石の下敷きになって戦死していた。午後四時ころだった。

高畑中尉は、第一中隊の小隊長だったが、隊員のほとんどが戦死したり負傷したため、第三中隊に配属になっていた。この日。私(佐藤)は、高畑中尉、当番の小路谷上等兵、桑原伍長らと岩かげにはいり、艦砲弾をさけていた。

岩から三㍍ほどの地点でロケット弾がサク裂した。中尉は右足を負傷、歩けなくなった。私(佐藤)は中隊とともに前進し中尉は小路谷上等兵と、その場に残った。その後、桑原伍長から、高畑中尉が手リュウ弾で自決したということを聞いた。

六月十七日朝二時、中隊は、摩文仁前方の一〇八高地めざしたった一門残った速射砲を引いて前進した。高地に到着したのが三時。陣地に砲を固定しようと、池田伍長、東海林兵長、松浦兵長など分隊員が砲を引いて五、六歩前進したとき、一㍍前に砲弾が落下した。三人が即死。池田伍長ら十四人負傷。最後の火砲を失った松浦兵長は、東海林兵長ら四人と手リュウ弾を発火、天皇陛下万歳を叫んで自爆した。

私(佐藤)は、まつごの水がのみたかった。水を捜して歩きまわった。いくらさがしても見つからない。脳裏には、旭川のわが家(佐藤宅)で、バケツになみなみとあふれる水がうかぶ。水が飲みたかった。

軍指令官の命令が伝えられた。

「戦況は遂に最後の段階にたちいたれり。予(よ)は、本夜、生存全将兵をあげて総攻撃にいでんとす。各隊は、本夜一斉に最後の一兵に至るまで敵を攻撃すべし。諸子はすでに、その身を大元帥陛下に捧げあり。自己をかえりみるなかれ、予は常に諸子の戦闘にあり」

六月二十二日、牛島中将、長中将自決、重傷者には、軍医がモルヒネ注射をうち、薄化粧をした看護婦は毒薬をのみ、母を呼びながら死んでいった。岩かげで一人の女学生が自決していた。右腕のなくなった死体のまくら元に、両親や兄弟の写真がちらばっていた。

田村中隊長は、生残者を集めた。

「ながい間行動をともにし苦戦をつづけてきたが、本日をもって中隊を解散する。二人あるいは三人で組をつくり、切り込みを敢行する。みんなは、命をながらえ、本島の北端に集結すべし」

この切り込み隊を、旭切り込み隊と名付けた。

私(佐藤)は小坂上等兵(狩太)と、敵の前線の後方に回ろうと、海岸を進んで行った。夜になると機銃掃射をうけ、歩くことができない。岩の下にもぐりこんだ。海上から放送が聞こえた。

「戦いは、すんだのだ。飛行機が飛んでもこわくない。昼のうちに岩の下から出ろ。夜間でるものは射撃する。武器はすてろ」

将校が二人、岩の下から出てゆく。私と小坂も、そのあとにつづいた。米兵の身体検査をうけ、小川の横に並んで立たされた。米兵にとりまかれ、部隊名や氏名をたずねられた。トラックで鉄条網を張りめぐらした兵舎に運ばれた。

夜風がさわやかで、弾丸のこない安心しきった夜だった。夜中に空襲と砲撃の夢を見て、目をさました。外では、カミナリがなり雨が降っていた。

×  ×

佐藤留義さん(旭川市東旭川町豊田)の手記は、以上で終わっている。この部隊が、米戦車隊専門に戦ったことが、つぎの米側軍の資料から推定される。

 

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