戦友の歌 故郷を遠く離れ 雨に打たれ消えてゆく

 米軍は、山頂の監視口と、下の入り口の両方からごう内に攻撃を加えた。せまいごう内は、負傷者でいっぱい。連絡はごう内につまった負傷兵の口から口への伝達。大勢の負傷兵が傷の痛さにうめく。下の入り口からは火炎放射のうなりがとどろく。田中曹長は、伝達がよく聞きとれない。状況を判断するには、伝言を聞かねばならぬ。坑道内いっぱいの負傷兵を踏みつけて何度も上の監視口の方へかけのぼり、下の入り口付近へ走った。坑道内は煙と熱で息苦しく、死にもの狂いだった。

 午後二時すぎ、米軍は、馬のり、攻撃不成功と判断したらしい。一斉に後退した。三十分ほどすると、今度は、猛烈な砲撃を集中しはじめた。外でサク裂する砲弾の爆風が、出入り口の玉石のすき間から砂や小石を間断なく吹き付ける。ごう内は、火薬のニオイとホコリで、一㍍先も見分けられなくなった。

 一発の敵弾が、上の立て抗に飛びこみ、ごう内でサク裂すれば、平野大隊長以下将兵は、一瞬にして吹きとび、大隊の任務も終わるだろう。どうせ死ぬなら、ひと思いに死ねばいいー田中曹長は、あまりの苦しさに、何度かそう思った。

 敵が遠方にいる場合は、その状況を知ろうとし、判断もできた。また、友軍陣地の動向もわかった。だが、終日、敵の攻撃をうけ、自分のいる陣地の確保に夢中になっているいまは、戦死者のことも、負傷兵のことも全然かえりみるゆとりがない。自分の傷の痛みさえ忘れていた。

 一日の戦闘が終わった。田中曹長は、ごうの入り口で、本田曹長の戦死体を見た。月寒歩兵第二十五連隊の一年先輩で、人格者であった本田曹長(空知出身)-いまここに死者をおおう一枚の毛布もなく、一つの穴もない。北海道を遠くはなれたこの島で雨にうたれ、風にさらされて消えてゆくのかー田中曹長の胸に、はじめて熱いものがこみあげてきた。星空に虫の音が聞こえる。合掌してめい福を祈る胸に、『戦友の歌』がよみがえる。激しい悲しみがわき上がってきた。泣きつづける声が、自分のようではなかった。

 その夜、平野大隊は石兵団転属をとかれ、もとの歩兵第二十二連隊の指揮下に戻った。幸地部落に近い一四○高地に後退し戦闘可能な傷病兵、豊見城に残

置してきた人員などを中心に、飛行場大隊、船舶工兵などで編成をしなおし、つぎの任務についた。

 補充された兵は、全国各地の出身者が入りまじっており、大半は歩兵出身だったが、暁、球兵団で、特別な訓練をうけた者もいた。将校に引率されて、転属を申請するだけで、一枚の書類もない。平野少佐は申告をうけると、一人ずつ出身地、現役入隊部隊名、戦歴などをたずねた。それがすむと、少佐が日露戦役以来の歩兵第二十二連隊の歴史を簡単に説明し『この連隊で、自分も諸士も旬日をいでずして、任務のためたおれるだろう。きのうまで陣地で傷を負い、戦車におしつぶされた多数の戦友―そのもとへわれわれも行こう』と訓示した。補充人員は、歩兵の将校が不足のため、工兵や騎兵の将校が中隊長になった。

 平野大隊は、二個中隊を再編成するとすぐ、新任務についた。その任務とはー石兵団の第六十三旅団(中島徳太郎中将)指揮下の後方部隊補給廠、野戦病院は、棚原陣地を撤収、退却することになった。平野大隊は、この退却援護を命ぜられた。同時に棚原前方地帯にいる第六十三旅団指揮下の各隊を幸地部落に収容するための支援行動も命ぜられた。

 以上は、いずれも第二十四師団(山兵団)命令だった。命令実行上、棚原鞍部(あんぶ稜線がクラの上部にU字型になっているところ)にある切り通し道路の確保がとくに重要だった。平野大隊本部は、大隊長以下田中曹長、指揮班衛生部員などをもって翁長をへて棚原に進んだ。一部で、棚原鞍部に陣地をかまえ、残りは前方戦線にいる石兵団生存者の収容と、兵器の収集にあたった。

 この任務は、二日で終わったが、棚原の石兵団陣地は、何度も進んだり退いたりするたびに通った。翁長、幸地の拠点から相互に支援しあえる地点にある。よくできている陣地なのにここで、戦わずに撤退するー田中曹長には、残念に思われた。だが、東西両海岸線の陣地がくずれ、我如古陣地も占領されたいま、棚原陣地だけが、敵の中央に突き出ている状態なので、日本軍はこれを放棄したものらしかった。

沖縄戦きょうの暦 5月25日

飛竜、振武特攻隊米艦に突入。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です