米軍の第一次総攻撃 四昼夜の攻防戦 山兵団も最前線へ

 四月十九日、にわかに米軍の砲撃、爆撃がはげしくなった。いままでにない猛烈さだーと日本軍側は記録している。米軍の第一次総攻撃開始はこの日午前六時四十分、日本軍の厳重な防御線を一挙に撃破する意図のもとに行われた。米砲兵に二十七個大隊は、大砲三百二十四門の放列をしき、海上からは巡洋艦六戦艦六、駆逐艦六が各砲門を開き、四十分間で一万九千発の砲弾が首里の日本軍陣地に落下した。さらに、爆撃機六百五十機は日本軍第一線に爆弾の雨を降らせた。

 空からドラムかんが投下され日本軍第一線は火の海になる。一陣地に五、六十発の巨弾・迫撃砲弾が集中してサク裂、陣地は一つ、また一つとつぶされてゆく。日本軍の左翼陣地(西海岸)の浦添陣地は、遂に米軍に突破された。日本軍は、洞穴にとじこもり、砲撃、爆撃をさけているだけ。いかんともしがたい。米軍は、東海岸の津覇から我如古をへて、嘉数にいたる東西約六㌔の戦線に、約一万の兵力をくり出し、日本軍陣地を突破しようと、猛攻展開中。

 石兵団各部隊は、山兵団の歩兵第二十二連隊とともに、陣地にたてこもって防戦。守備範囲内の宜野湾村嘉数高地では、侵入してくる米戦車群が、日本軍の四十五㍉戦車砲でねらい撃ちされ、たちまち四、五台が火をふき破壊された。残りの戦車が反転して逃げてゆく。付近の部落は、つぎつぎと破壊され、燃えあがり、無残な姿に変わってゆく。

 はげしい攻防戦は四昼夜つづき、米軍は攻撃を中止した。日本軍参謀部は、米軍上陸以来激闘をつづけてきた石兵団の損害が大きく、もはや、第一線保持ができなくなったことを知った。

 山兵団は無傷で島尻郡陣地にいる。これを北上させ、第一線の右翼(東海岸・幸地部落以東の地区)に配備することを決め山兵団各部隊に移動を命じた。道産子部隊は、元気いっぱい前線へ出発、二十四日から二十七日までのあいだに移動を完了した。日本軍は戦線を、(東海岸から)我謝―幸地―仲間―宮城―勢理客の線にととのえた。

 山三四七四部隊本道出身戦死者(今井要さんの調査)

  • 中尉 大浦真治(第六中隊長、五月四日西原村百五十高地で戦死、札幌市南六西十三)小斯波章(機関銃中隊長、五月十日西原村百五十高地、札幌出身)佐藤長太郎(第二機関銃中隊長、五月十九日首里氏弁ガ岳、札幌北二西一)世良一清(部隊本部付、六月十九日真壁、札幌苗穂町八六)川島七男(第三中隊長、五月五日西原村翁長、札幌平岸)加藤一也(六月二十日三和村真栄平、白老町)五十嵐英雄(連隊本部、四月二十九日首里、雨竜村)佐野荘一(第五中隊長、六月十日三和村伊敷、熊石村)黒田二郎(第七中隊長、五月十四日弁ガ岳、瀬棚町)中沢輝雄(五月十日西原村幸地、函館杉並町)宮崎敬三郎(第二中隊長、五月二日、西原村幸地、函館宮前町)小林信吉(第二大隊本部、七月二日真壁、亀田村)
  • 少尉 東大吉(第三大隊砲小隊長、五月十九日弁ガ岳、札幌白川一八一四)宇多栄治(連隊本部、十九年十月四日北谷村、函館春日町)大阪仁三郎(第十中隊、四月十二日浦添村、函館松陰町)神田秀一(六月二十三日真壁、函館天神町)木村博(五月二日幸地、函館大森町)漆崎勝司(第一大隊本部付、六月二十日真壁、函館)加藤研一(五月一日幸地、小樽)大島勝夫(五月十日幸地、小樽船浜町)伊藤恵之助(六月二十日真壁、小樽花園町)武藤敏夫(第二大隊砲小隊長、六月十九日三和村伊敷、函館柏木町)松吉悦郎(第十中隊、六月二十二日三和村米須、函館)
  • 曹長 木村春信(第一中隊六月十日、高嶺村真栄里、小樽入舟町)

沖縄戦きょうの暦 5月26日

二十二日以来、避難民は首里から島尻方面に南下中

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です