たらちねの手紙② 思い出に感涙… 夫、愛児、兄弟をしのび

 札幌市北十東五、国鉄アパート二一一号一○六室、鈴木美代子さんの手紙

 前略 乱文にて、とりいそぎおたより申しあげます。お許しくださいませ。

 私は、北海タイムスを長く愛読させていただいております。いつもありがたくお礼申し上げます。

 さっそくですが、夕刊に連日のっております『あゝ沖縄』。何をおいても一番先に読むのが日課になっております。

 と申しますのは、私のたった一人の姉の主人が、沖縄で戦死したからです。すぎ去ったむかしの悲しい思い出として、なにかにつけて忘れられず、やさしかった兄の姿をしのんでいる一人でございます。

 先日五月十八日夕刊に、思いがけず、その兄の最後のようすが、まざまざと書きつづられ、最後の最後まで、元気で戦っていたのに、力およばず手リュウ弾で自爆したありさまが、よくわかりました。

 兄は球一五五七六部隊の小松之夫上等兵です。大きな見出しで書き出され、涙ながらになんどもなんども読まさせていただきました。

 これもタイムスを愛読していた、そのたまものと厚くお礼申し上げます。さっそく、仏前に新聞とお線香を供え、苦しんで死んでいった兄のめい福を祈りました。

 なお、遺族名簿を作成するそうですが、現在、姉は娘とふたりで勇払郡追分町道営住宅に暮らしております。兄が戦死したあと、ずうっと、追分町鉄道弘済会に勤めさせていただいております。

 では、乱文にて失礼ですが、まずはお礼かたがた、お知らせまで一筆したためました。

 御社のご発展とご多幸をお祈りしております。私もこれをご縁に、長く愛読させていただきます。

 赤平市字赤平泉町二六六番地小倉照子さんの手紙

 四月一日からの『あゝ沖縄』を拝読いたしております。生存者のみなさまより、当時のおいたわしい激戦のありさまをお知らせくだされ、思い出もあらたにいたしております。私同様、最愛の夫、いとしい愛児、あるいは兄弟のありし日のおもかげをしのび、感涙にむせんでおられる方も大ぜいいることと存じ、つつしんで、戦没者の霊に感謝の黙とうをささげます。

 生存者のみなさまには、激戦をじかに体験し、九死に一生をえてお帰りなされ、心からご苦労さまとお礼申しあげます。

 このような悲しい戦いは、二度とくりかえしたくないと思います。銃後にあっても、みなさまが、苦しい思いをなされましたのですから・・・

 私も、夫の霊をお守りいたすとともに、すこしでも戦没者の霊をお慰めできればと、遺族会のために努力いたしております。

 戦没者の写真アルバムを作成くださいますとのこと、夫の写真を同封いたしましたのでお願い致します。山三四七四部隊佐藤隊、故小倉与惣吉准尉。

 札幌市平岸三条四丁目、三浦真一方横沢タノさんの手紙

 乱筆にてお許しくださいませ。タイムスの沖縄戦記を毎日楽しみに読んでいる一人でございます。先ごろ札幌丸井デパートで、沖縄戦の写真を見せていただきました。

 いろいろと感銘ぶかいお写真を見まして、いまさらながら激しい戦いのようすを思い、目がしらがあつくなり、泣いて帰りました。

 あれから、もう二十年の長い歳月がたったのですが、毎日のように主人のことを思い出しているのです。幼かった子供たちも、それぞれに成長して、元気に生活しております。

 札幌丸井デパートさんの会場で写真をくい入るように見ておられる年とったおじいさんや中年のご婦人がたみなさん大事な子供さんやご主人をなくされた、私の同志と思い、他人ではないような親しさを感じました。

 私の主人が戦死したと思われる那覇付近は、六月の十九日に全滅とのことでした。ほんとうに貴重な写真を見せていただいてありがたく思っております。

 私の願いは、死ぬまでに一度主人戦死の地に行ってみたいーということです。

 主人の沖縄からのたよりは、私と養母、四人の子供一人一人に一度に六通の手紙がきたので私たちは大喜びしたのですが、それが絶筆となりました。

 いまだに保存してございます。いつも出しては読み、封筒などは、もう、やぶれてなくなってしまいました。

 いまはこうして、新聞で現地のようすを知ることができまして、私たち、どんなに喜んでいることか、どうぞ、お察しくださいませ。ほんとうに心からお礼申しあげます。

 同封の写真は沖縄からのたよりのなかに同封してあった、数すくない写真の一枚を引きのばしたものでございます。戦没者アルバムにくわえていただければ、さいわいと存知ます。ほんとうにありがとうございます。かしこ

沖縄戦きょうの暦 5月28日

 日本軍司令部豪雨のなかを首里を放棄、南部へさがる。

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