たらちねの手紙③ せめて遺品を… 知りたい最期の模様

 札幌市北十二西一、荒谷きみさんの手紙

 拝啓 前文お許しくださいませ。御紙夕刊の『あゝ沖縄』はわが子が、沖縄で戦死した母親として、毎日、夕刊を待ちわび、もしやわが子の名前が出てこないか、どうかあらわれますように、と念じながら紙面にくい入るように拝見いたしております。

 私の長男は荒谷正治と申し、東京目黒の官立無線高等学校を出た昭和十八年の春、現役で旭川第六部隊杉村隊に入隊いたしました。その後すぐ、満州第七九五部隊佐藤(辰)隊、それから佐藤(禎)隊(は)次は西沢隊(き)に所属し、その後、沖縄に移動して山三四八○部隊野砲隊西沢隊と書いたハガキがただ一本、沖縄からありましただけで、音信がとだえました。

 その年の春に、四男が十六歳で特別幹部候補生を志願いたし、千葉の一○二部隊にはいって台湾に渡る途中、二十年の一月七日に東支那海で魚雷にあたり、戦死いたしました。遺骨はなくとも、せめて遺品だけでもと思いましたが、なにもございませんでした。長男正治の消息は、一年後になってもわかりませんでしたので、終戦連絡所に問いあわせましたところ『二十年八月十五日死亡』と書いたかたちだけの遺骨が、四男の分も兄弟一緒に帰ってまいりました。

 その後十年たった三十年一月十七日、忘れもしないこの日の朝方、不思議な夢を見ました。

 その日のひるまえ、近所の北十二西四に、貴戸音右衛門という人がおられ、御子息の貴戸中尉が沖縄で戦死なさった、そのお宅へ、たずねてこられた人がおりました。角守という方で、沖縄では隊長さんだったようです。この人に、はからずもお会いいたし、長男は、本部付であったことや、傷ついたため、手リュウ弾で、六月十九日の夜八時ごろ自決したことなどをおうかがいいたしました。場所は沖縄県島尻郡真壁村字真壁本村(部落)九七五高地ということを知りました。角さんは、当時、大学院のレントゲン科の技師をしておられましたが、体内に弾丸がいくつもはいっているようなおからだでしたから、間もなくお勤めをおやめになり、ご住所も変わって、その後の消息がわからなくなってしまいました。

 ようやく十年目にお会いした角さんにも、こうしてお別れし、ほんとうにさびしく思っておりましたところへ、御紙の記事の御発表があり、拝見させていただいております。どんなにかありがたく、ほんとうに、心から感謝いたしております。つたない歌ですが、当時の気持ちをよんだものがございますので。”自決せりと吾子の最後を今日ききぬ” 十年過ぎてあふれ落ちる涙 待ちわびて最後のさまをききてより うつしえの目は、かがやきて見ゆ。(以下略)

 紋別郡上湧別町字中湧別町、結城弘道さんの手紙。

 前略 貴紙にのせられておりましたノモンハン事件の記録を、となりの家より借りて読んでおりましたが、その後、沖縄戦記がのせられると知り、四月一日より新聞の切り抜きをしております。私の父も沖縄で戦死したのです。

 ですから、家内中で、あるいはきょうは、亡父の名前が新聞に出ているのではないかと、毎日毎日、真剣になって読んでおります。

 父は二十年五月八日に戦死したのですが、死の直前まで機関銃を撃っていたときいております。小高い丘の上に追いつめられ、軍旗を守っていたそうです。昼間は穴の中にかくれ、そして、夜になると銃剣やスコップで病院などをおそい、食料をうばっていたそうですが、次第に米軍の警戒がきびしくなり、キャンプのまわりには、電波探知器などを置いたために、近よりづらくなってきたそうです。

 最後に下の方からのぼってきた戦車に、胸部を戦車砲でうちぬかれ、首を前にかしげただけの姿勢で即死していたそうです。

 以上のことは、戦後、父の戦友だった方が、岩内に出張され、生き残りの人から、直接きいてきてもらったものです。

 しかし残念ながら、その後、その人との通信もとだえ、その人の名前まで忘れてしまいました。ですから、貴紙によって、連絡がとれるようになれば、うれしく存じます。五月八日、父の命日の日に。山八八部隊第六中隊、兵長結城竹太郎。

 蘭越町来、谷内嘉四郎さんの手紙

 毎度沖縄の報道を拝見し、涙の出る思いです。私の兄谷内義雄曹長(山三四七四部隊田中隊)は、真栄里で戦死しました。当時の事を知っている人をさがしてください(略)

 戦死者を思う手紙はつきない。以下は次の機会にゆずろう。

沖縄戦きょうの暦 5月29日

 米軍、那覇に突入。

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