苦戦する米軍 撤退せずば死 穴にこもり援軍待つ

 米軍は、浦添村の西原丘陵めざし、攻撃をはじめた。丘陵の前方にくぼ地がある。谷をひかえ、墓地のある丘の南端から壽数の谷の上流となっており、山の稜線が東西に走っていた。西原丘陵は壽数丘陵からみねつづきだ。そのあいだに、幅ひろい低地が横たわっており、このなかを第五番道路(宜野湾―首里街道)が走っていた。

 牧港河口にそそぎこむ流れは、棚原北東の丘にみなもとを発している。西原と壽数丘陵の北側のふもとから、そのまま西方の海へ流れこんでいる。途中は、壽数の前のように河床をなしていた。

 米第三八一歩兵大隊は、我如古北方のその位置から、部落西方を通過して進撃したが、部落にさしかかったとき、我如古南東部から日本軍の機関銃掃射をうけた。

 左翼にいたC中隊は、ちょうど墓地のある丘の近くにいたため、機関銃で頭上からまともにねらい撃ちされた。中隊は、後方に引きさがろうとした。たちまち退却路で数人の兵士がバタバタと倒れた。日が暮れるまで身動きできなかった。

 宜野湾村では、米第三八一連隊の第三大隊が、同じ地点に三十五分も待機して、第一大隊の見えるのを待った。が、遂に姿を現さない。そこで第三大隊は、K中隊を左に、L中隊を右に進撃を開始した。

 K中隊がクボ地にさしかかると、西原丘陵や墓の中から、一斉に迫撃砲、機関銃、小銃の射撃をあびた。米軍は、これに応戦、一分隊をもって日本軍陣地をおそい、五人を殺し、機関銃一、迫撃砲二を撃破したが、そのすぐうえの陣地から日本軍の機関銃をあび、四人が戦死、二人が負傷した。

 こういう苦戦にもかかわらず、第二小隊が午前八時三十分までに、どうにかこうにか西原部隊のはしにある丘の頂上まで進撃することができた。しかし、ここで日本軍のきゆう砲弾や手りゆう弾が、アラレの降るように弾幕をはり、両翼の丘からは機関銃弾の猛射をあびた。もう一歩も進撃できなかった。やっと生き残った米兵は、後退して山腹に穴を掘り、たてこもって援軍のくるのを待った。

 K中隊は指揮官が二度も変った。最初の中隊長は戦死。二人目は負傷した。右翼の方のL中隊では、三人の米兵が、西原丘陵の前を横切ろうとして、一人ずつ殺された。

 丘陵西端からの日本軍の機関銃は、まともに、米軍前面に当たり、壽数丘陵からの弾丸は、道路を越え、米軍右翼を直撃した。壽数では、穴の外に出れば、たちまち死か負傷だった。

 ここで、米第九師団と米第二十七師団が合流、壽数と西原丘陵間にある首里―宜野湾街道にそって布陣した。米第三八一歩兵連隊第三大隊長D・A・ノーラン中佐は、死と敗北の朝、他部隊との共同作戦が必要なことをさとった。彼は隣接部隊第二七師団歩兵連隊のC中隊長ムルハーン大尉に会い、自分(ノーラン中佐)のもつ戦車五台を利用して合同攻撃をしようと相談をもちかけた。だが、ム大尉は、壽数に進撃準備をすすめていてだめだった。

 昼さがり、ノーラン中佐は右翼からの壽数進撃は、全然のぞみがないことをさとり連隊長M・E・ハロラン大佐の許可をえて兵を低地に後退させ、守備させることになった。

 この総退却がまだはじまらないまえ、大隊の戦車五台のうち一台が、さきに隊列をはなれて動きだした。戦車が壽数と西原丘陵の間の平地にさしかかったとき、西原から飛びこんできた日本軍の爆薬隊にあい、たちまち撃破された。

 第一大隊と第三大隊のギャップをうめるため、予備軍からL中隊が派遣された。この部隊の移動で日本軍の攻撃は、ますます激しくなり、西原丘陵前の平地では、中隊はざんごうを掘り、そこから他の中隊の援護で射撃をして退却させることになった。

 L中隊が援護射撃をしている間にも、日本軍のきゆう砲は落雷のように襲来、兵数十人が生き埋めとなり、戦死してしまった。この日、西原丘陵前に陣取っていた第三八一連隊に落ちた日本軍の八一㍉きゆう砲弾は、約二千二百発という。午後五時までに第三大隊の損害は八十五人の戦死傷者を出す大損害をうけた。

 また宜野湾村地域を受け持った第二十七師団は、これも各地で苦戦の連続だった。牧港入江を暗夜にまぎれて渡り、夜が明けるまでには、浦添村の丘陵地帯に陣をかまえた第一○六連隊の歩兵二個大隊につづいて、第三大隊は、午前六時、壽数西方を後にした。(沖縄戦・米陸軍の記録より)

沖縄戦きょうの暦 6月18日

 バックナー中将高嶺村真栄里で戦死。

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