海三船七 米軍、上陸を開始 海は船でいっぱい

 笹森兼太郎さん(釧路)は、二十年三月二十三日から四月一日の米軍上陸までを、次のように書いている。

 連日、米軍の空襲、艦砲射撃をうけ、戦闘の間近いことを感じた。四月一日、米軍は嘉手納(渡具知海岸)から上陸。その報告が『海が三分で船が七分』

 第一線では、石兵団が戦闘中とのことで、夕方になると、まだ、日が落ちないのに照明弾があがり、昼のように明るい。

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 鈴木繁雄さん(富良野)の三月二十三日から四月一日までー

 空襲、艦砲が激しくなると、中隊全員、兵舎を出て、地下ごうの陣地配備についた。陣地内には、飲み水を入れた水ガメはじめ、機関銃、機関銃を運ぶクラ、弾丸を運ぶクラなど、すべてを運びこんだ。

 草ぶき兵舎がグラマン機の銃撃をうけて燃えはじめる。鈴木曹長は、二、三人の兵隊と兵舎の屋根にあがり、バケツリレーで運ばれてくる水をかけ、消火につとめた。ふたたびグラマン機の襲撃―米軍機の機銃弾が大きいのにおどろく。

 命がけで火を消し、兵舎内に残してあった物品を、全部、ごう内に運びこんだ。

 艦砲射撃は、飛行機の観測のもとに行なわれていた。上空に“トンボ”がエンジンの軽い音をひびかせ、空中に浮いている。陣地付近の砂糖工場がねらわれ一弾は遠くへ落ちた。二弾目は近くに、そして、三弾目が命中した。“トンボ”が弾着を無線で海上の軍艦に伝えているらしかった。

 この正確で猛烈な艦砲射撃のあい間をみて、弾薬をごう内から外へ全員で運び出してかわかす。しめるからだ。出したり入れたり忙しい。

 四月一日、米軍上陸。鈴木曹長は兵一人とともに敵情監視のため、山頂にのぼった。海は船でいっぱい。頭上に敵のりゆう散弾。頭がわれそうな音だ。空中で赤黒い火が、はじける。ビシ・ビシ・ビシ・・・と破片が地面に突きささる。

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 山三四七五部隊第一大隊第一機関銃中隊名簿(佐藤三郎さん=広尾郡大樹町東和=調査・上は上等兵、一は一等兵、兵は兵長、伍は伍長、軍は軍曹、曹は曹長、准、少、中は尉を省略、見は見習士官・敬称略)

 小林一上(上川郡剣淵町字兵村一六九、父、健太郎、五月四日小波津で生死未確認)向井政雄上(中川郡豊頃村永作別五○一五、兄、義雄、四月二十八日山川十字路付近で艦砲直撃弾で戦死)村瀬栄吉上(帯広市川西町字下川西一線二九、父、寅吉、生存)浦谷吉之助上(稚内市南浜通一丁目、妻、時枝、五月四日小波津戦線で戦死)内田康親一(三重県川越村高松五七○、父、道元、生死未確認)

梅元満治一(鹿児島県姶良郡国分町新町六一、妻、ツル、四月二十九日小波津西方高地で迫撃砲弾で戦死)牛渡将美一(本別町大字ビリベツ、父、直之、生死未確認)工藤喜代志伍(士別市上志別町字上出士別二七線南五三、兄、喜源治、四月三十日小波津戦線でソ撃弾で戦死)桑原元治上(帯広市緑ケ丘九五、兄、茂、生死未確認)山田博中(札幌市琴似二二三、妻、富子、五月四日翁長北側高地まで進撃し機銃弾で戦死)山崎徹曹(栃木県上都賀郡北犬飼村茂呂、父、伊藤次、生死未確認)山内周一伍(常呂郡佐呂間町字武士、父、友助、生死未確認)山本力之助兵(大樹町大字雁舟村字日方番外地、父、重太郎、五月五日運玉森で手りゆう弾で戦死)=つづく=

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