工藤分隊全滅 土砂に埋まる銃 暗ヤミの中で整備

 石沢第二小隊長の戦死は、夕方中隊指揮班に報告された。日中は、砲弾が激しく三百㍍さきの指揮班へ行けなかったのである。

 報告を終えた鈴木分隊長は、今夜、工藤分隊長とともに、夜襲攻撃をするよう命ぜられた。陣地へ帰った鈴木分隊長は、隊員とともに、重機関銃をエンピで掘り出した。銃は入り口付近に偽装しておいてあったが、砲弾のため土砂にうもれてしまっていた。

 掘り出した銃を、くらやみのなかで整備した。ついでに、石沢准尉の遺体を掘り出して、あらたに穴を掘り、埋葬した。准尉の軍刀は遺品として鈴木分隊長が持った。

 鈴木分隊長が銃の整備を終え、攻撃地点についたとき、工藤分隊はすでに戦闘中だった。鈴木分隊長はせっこう(斥候)二人を出し、戦局を偵察させた。

 敵は優勢で、工藤分隊は全滅に近い損害をうけているーとの報告に、攻撃方向を変え、約三百㍍ほふく前進し、敵陣に近づいた。

 そばに、他部隊の大隊砲陣地があった。この砲兵たちの話によると、前方約二百㍍さきの高地を米軍が敵地占領しているーという。

 鈴木分隊は、大隊砲陣地のうえに、適当な陣地を見つけ、配置についた。

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前回につづく名簿(7)

 長沢鶴男伍(紋別郡興部町字沙留、父、大次郎、五月四日翁長北方高地で戦車砲弾で戦死)長瀬四郎伍(北見市一条通西二丁目、父、新一、五月四日翁北高地で迫撃砲弾で戦死)平坪正男上(中川郡音威子府町常盤村ベラウツカ部落、父、重三郎、五月十日運玉森で迫撃砲弾で戦死)中谷敏雄上(根室市和田村大字昆布森二、父、辰雄、六月二十日八重瀬岳後退後生死未確認)中川友一上(音更町字下士幌北二東十三、兄、好生、五月四日翁長北方高地で迫撃砲弾で戦死)中島清勝上(樺太大泊富内村大字喜美内北一○七、兄、喜一郎、五月二日小波津西側高地で迫撃砲弾で戦死)浪岡久太郎一(斜里郡小清水町字止別原野一二線、生存)中山春吉一(広尾町字茂寄原野南五線、妻、二三枝、四月二十九日小波津で迫撃砲弾で戦死)長嶺力一(大樹町字上当縁北八線、父、安太郎、五月十一日運玉森で戦死)松本多平上(紋別郡滝上町九線南七、父、久太郎、六月四日新垣で戦死)前田京四一(音更町字下士幌北五線東十七、父、京松、六月二十日与座岳で戦死)松浦正夫上(網走郡津別町字活汲五二、父、代助、六月十六日八重瀬岳で戦死)古川岩藤一(斜里郡小清水町大字止別字小清水、兄、岩五郎、生死未確認)深川博兵(常呂郡置戸町上秋田北七線二三、父、稔吉、十一月十日戦病死)遠藤清一伍(山形県置賜郡和田村大字上和田四七、父、伊佐太、六月二十日以後不明)阿部剛上(中川郡中川村大字大富五○五、遺族不明、六月十四日八重瀬岳で戦死)阿部肇上(大樹町字尾田、父、善吉、五月六日運玉森で戦死)佐藤長丸(福島県石城郡泉村大字王露字前原九五、兄、長久、戦死場所不明)佐藤良雄軍(紋別市字小野泊二三一の一、父、順作、五月四日翁長北方高地で迫撃砲弾で戦死)斉藤政夫伍(栗山町字梅浜七、妻、ミツ、五月四日翁長北方高地で迫撃砲弾で戦死)斉藤謙二伍(阿寒町字仁仁志別西八ノ四八、兄、秀一、五月三日小波津で迫撃砲弾で戦死)

戦記係から 写真が続々くるようになりました。故人の氏名はもちろん、わかるかぎり、部隊、大隊、中隊、分隊、階級、戦死月日、場所、遺族氏名と住所と関係をかいてください。

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