生きているとは… 陣地内でさく裂 しばし目もみえず

 五月一日、笹森兼太郎兵長(釧路)は、山田博中隊(第一重機関銃中隊)第三小隊長星野慧一曹長の声を耳にした。 

 『お前たちの目前にいる青い色の鉄帽をかぶったのが米軍だ。よく見ろ』

 笹森兵長は我妻第二文隊長らと、ごうを出て前方をうかがった。ここは小波津部落の第一線陣地。米軍はもう、約二百五十㍍前方に迫っていた。

 〈敵がいる。だが、最前線ともなるとこうも静かなものか・・・〉

 笹森兵長は、小波津へくるまえの後方陣地で、すさまじい艦砲、空襲をうけたことを思いうかべた。

 〈ここへきたら、目前の敵だけを見ていればいいんだから気は楽だ〉

 そうも考えた。重機にタマをこめる。照準眼鏡をつけ、高低目盛りと左右目盛りをあわせる。目盛りの中心点に米兵の頭がはいった。

 その途端、陣地内で敵砲弾がサク裂、ショックで目の前は真ッくら。耳は聞こえなくなった。どのくらいたったか―視力を回復したとき、戦友たちも、たがいに相手の生死をたしかめていた。

 十㍍ほどはなれたタコツボ陣地から伝令が飛び込んできた。 

 『軽機がやられました。重機にかわってほしいとのことです』

 『よし』

 我妻分隊長の命令で陣地を変換する。タコツボ陣地には、我妻分隊長、笹森兵長、タマをこめる装てん手の三人しかはいれなかった。陣地のうえに天幕をはり、土をかける。

 一分間に六百発のタマを撃てる重機も、一発撃てば百発もの敵弾が飛んでくるので、うかつに撃てない。カンパンとカン詰め、それに砲弾の穴のたまり水で一命をつなぎ、朝から日がおちるまで緊張の連続、五月四日総攻撃の日までこの生活がつづき、どの顔も、生きているとは思えない表情をただよわせていた。

 ××  ××

前回に続く名簿(9)尾崎和夫兵(紋別郡西興部村、父、清蔵、生死未確認)大原喜代志兵(紋別郡滝上町本流九線八号、義兄、強、生死未確認)大内武治衛一(釧路市鳥取町、父、亀蔵、生死未確認)太田清治上(大樹町一線一五六、母、ダイ、五月五日、小波津で戦死)大内享(階級不明、大樹町麻舟五線南一二○、父、喜蔵、六月十六日、与座岳で戦死)若林茂一上(赤平市一七二、父、茂作、生死未確認)渡辺俊綱一(幕別町大字別好村字ポン札内、父、義綱、五月十七日、艦砲弾破片で戦死)渡辺直義一(阿寒郡鶴居村下久若名北十四線、父、勝義、五月二日、小波津一本木付近でソ撃弾で戦死)加藤恒吉中(宮城県伊具郡金山町田林五八生存)桂田巳之吉中(札幌市大通西十七丁目、妻、すみえ、五月四日、小波津で戦死)刈谷正清軍(紋別郡滝上町原野二○、生存)金山均大佐(高知市鷹匠二七、妻、すみ、六月二十二日、新垣において山三四八三部隊長中村卯之助大佐と十㌔爆雷で自決)印牧友光曹(岩見沢市六条通西七、生存)兼平未光軍(枝幸郡中頓別町字楓二二五ノ十二、母、キク、六月十四日、八重瀬岳より切り込み出動後生死未確認)神代定雄伍(広尾町小紋別番外地、父、久蔵、五月十三日、六六八高地北側でロケット弾で生き埋め)川戸孝輔(上標茶町字中津村二十五線、父、穣、六月十三日、八重瀬岳で艦砲直撃弾で戦死)藤田静雄曹(栃木県那須郡金田村南全丸一○○八、妻、弘子、六月十五日、八重瀬岳後退後生死未確認)福島清一郎曹(福井市松本上町七ノ三、父、清之助、生死未確認)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です