分隊長の戦死 胸に追撃砲弾 妻子の写真を抱いて

 渡辺武男上等兵(野付郡別海村字オダイトウ)戦死―それを阿部分隊長に伝えようと、栗山兵長は地面をはうようにして進んだ。胸から上だけの人間がいる。ハッとした。よく見ると動いている。大山上等兵だ。

 『だいじょうぶかッ?』

 砲弾でタコツボが」くずれ、胸までうまって、動けないでいたのだ。大山は、白い歯をみせた。

 『ルーズベルトは、おれにあたるタマは、製造しないといっていたぜ』

 相変わらず陽気な大山だった。

 『阿部伍長は、どこにいる? ナベが戦死したぞ』

 『やられたか? ・・・分隊長なら、この左下へ十五㍍くらい行ったところにいるぞ』

 栗山兵長は、教えられた地点へ進んだ。

 『分隊長ッ・・・分隊長ッ!』答えはない。阿部正雄分隊長の戦死体は、運玉森北方約一千㍍の沖縄の地のうえで眠っていた。渡辺上等兵同様、胸部を迫撃砲弾でやられている。

 (北海道に妻や子を残しておられた。さぞ、無念であったろう。日ごろ、ひとことの不平もいわず、まじめに軍務に励んでおられたのに・・・)

 めい福を祈る兵長の胸中に、元気なころの阿部分隊長のおもかげがうかぶ。

 米軍がまだ上陸しないころ、バナナの葉のかげで、一枚の写真を、こっそりながめている姿だった。その姿を、兵長はたびたび見た。

 (あの写真はいつも膚身につけていた。たった一枚だった。妻が、わが子を抱いて写したのだった。

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 阿部伍長、渡辺上等兵の遺品をとって埋葬、名も知らぬ野の草花一輪をそなえたのは、その日の夕方、あたりがうすぐらくなってからだった。そして、栗山兵長が、戦死者を埋葬したのは、この二人が初めで、おわりとなった。五月四日の総攻撃以後、できなくなったのである。

 栗山兵長は、五月二日のこの夜以来、部下十人の第二分隊長を命ぜられ、総攻撃の出発準備をはじめた。

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 栗山兵長が戦死を目撃した人々=以下敬称略=▽甘利栄司中尉・中隊長(長野県北佐久郡小諸町二六○、父、栄太郎)五月四日の総攻撃で小波津で、ソ撃弾を頭部にうけ、六月十二日八重瀬岳で戦死▽丸子清雄中尉・第一小隊長(山形県東村山郡寺津村十一、妻、富子)五月四日午前四時三十分、小波津で頭と胸にソ撃弾をうけて戦死▽中橋精一軍曹(美瑛町原野一線、父、鉄造、丸子中尉とならんで、頭をうたれて戦死)▽阿部正雄伍長・第二分隊長(大樹町字振別、父、三郎)五月いつか、運玉森北方で自決。胸部に三発被弾していた。▽長谷広上等兵(釧路市黒金町一四、父、初治)六月八日八重瀬岳西斜面の高良でグラマン機の機銃弾を頭にうけて戦死▽芦垣熊次郎軍曹(美唄市東美唄二ノ五○三、父、孫七)六月九日、八重瀬岳西側高良で戦車砲弾をうけて戦死▽西原正雄兵長(北見市大正区裏山東一線三、父、利吉)六月十三日八重瀬岳南側で戦車砲で戦死▽渡辺武男兵長(野付郡別海町オダイトウ、父、与三郎)▽村上幸一兵長(紋別郡湧別町)六月八日八重瀬岳西側の高良で馬のり攻撃をうけ、ソ撃弾で戦死▽大野喜美兵長(芽室町字関水、父、健一)総攻撃に出発前の五月三日夜、黄リン弾の直撃で戦死▽田中等兵長(網走郡津別町、父、浅之助)八月十四日終戦前日、摩文仁東方仲座海岸でソ撃弾で戦死▽大神田武司上等兵(遠軽町、父、勝雄)五月四日総攻撃の我謝高地で戦車砲弾で戦死

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