樫木大尉の手記(5)師団命令 緊張する連隊本部 いよいよ第一線 戦闘に参加

 毎夜、行なわれる特攻隊の活躍―海に消えた特攻隊員に敬意を表し、きたるべき陸戦で、必ずそのかたきをうつことを、何度も伊東孝一大隊長とちかいあった。

 電話不通後は、毎日、連絡兵をつれた樫木副官が、部隊本部へ命令受領にでかけた。本部は照屋東方一㌔の三差路台上陣地にあった。伊東第一大隊の本部は、座波の西側高地・養正山で二㌔はなれていた。途中、空からはまる見え。グラマン機に何度も追いまわされた。

 敵情を監視しているうちに四月一日。米軍は、中頭地区に上陸を開始した。石兵団の戦闘状況、損害、米軍の攻撃ぶりなどが逐次伝えられていた。米軍は戦闘を続けながら、相当量のビラを、島尻地区のわが陣地に散布した。

 『日本軍は夜間に戦闘する。これはひきょうである。米軍は昼間戦闘をし、夜間はじゅうぶん休養をとる。これがスポーツマンシップである』

 『日本軍将校の大部分は、すでに投降しているのに、兵隊はなぜがんばっているのだ。むだな死をえらぶよりも、生きて郷里の父母とともに楽しくくらそうではないか』

 『中頭地区の軍人も住民も、いまは平常どおりくらしている。早く陣地を出て明るくくらそうではないか』

 『米軍はたたかわぬ者にたいしては、危害をくわえるようなことはしない。米軍を信頼して早く戦闘をやめ、父母のもとへ帰ろうではないか』

 『無謀な戦闘をすることは、人類の破滅である。諸君らはよく世界に目をむけ、平和な社会に生存しようではないか』

 以上のような意味の投降勧告宣撫(ぶ)工作ビラがばらまかれた。日本軍はこれらのビラに動揺しなかった。

 部隊本部から破甲爆雷(黄色薬)の支給連絡がきた。弾薬班長大日向軍曹(函館)が、班員をつれて受領の帰途、グラマンの襲撃をうけ首を機銃弾でやられた。これが部隊本部最初の戦傷者で、みんなを殺気だたせた。

 師団命令 四月二十二日、部隊本部に師団命令がとどいた。伊東大隊長と樫木副官は、部隊本部へよびだされ、北郷格郎部隊長から命令をうけた。

 〈命令―山三四七五の伊東部隊は、二十四日夜あけまでに、その第一線をもって小波津、小那覇以南の線を縦深(たてぶか)に占領し、その陣地前の敵の攻撃を撃滅しながら、この方面のつっかいばしら(支撑点=しとうてん)となるように準備せよ。

 戦闘地境は、右・和田部隊(山三四七六)と伊東部隊(山三四七五)は、運玉森一六六・あむろ五西北方六百閉鎖曲線―安室―小那覇南端をつらねた線。伊東部隊と左・吉田部隊(山三四七四)は、弁ガ岳東方一㌔二条実線路屈曲部―翁長村役場跡―上原東方二百三差路を連ねた線。

 この師団命令を部隊本部では電報でうけたので、石兵団の戦闘状況や損害の詳細は聞かれなかった。しかし、連隊本部の空気は緊張し、北郷部隊長は

 『いよいよ山三四七五部隊の第一線戦闘参加だ。第一大隊は師団直轄となり、連隊をはなれさきに出動する。しっかりたのむぞ』といって、伊東大隊長の手を握った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です