海の特攻隊 切り込み戦を敢行 船舶工兵 ほとんど全滅

 海上特攻隊に所属した小樽市信香町一ノ七の藤原春雄さんから『逆上陸を敢行して、一番早く全滅のうめきにあいました』と書いた手紙がきている。戦記として、ここに発表されるべき部分なのだが、詳細が省略されているのでほかの資料で補足しながら書き進める。

 十九年三月末、満州東安の八八部隊(山三四七四部隊)から約六十人、東安周辺の他部隊からも多数の転属者があって、一同は満州牡丹江に集結。

 四月上旬、和歌山県の暁部隊(和歌山船舶工兵第九連隊)で三ヶ月間船舶工兵の教育をうけ、七月上旬、暁一六七四四部隊を編成した。

 (船舶工兵第二十六連隊。部隊長・佐藤小十郎少佐、副官石塚春雄少尉、第一中隊長中鹿雄大尉、第二中隊長齋藤栄三郎少尉、第三中隊長原田充中尉は徳の島に派遣)

 藤原さんは第三中隊の第四小隊(長・篠田直也少尉)に所属して下関到着。八月五日ごろ那覇港に入港した。

 二十年三月上旬、部隊は国頭郡の渡具知から豊見城村の真玉橋、高安付近に移動。招集兵五、六十人入隊。三月二十八日、我孫子曹長の指揮で兵数十人は、神山島に切り込みを敢行した。

 五月四日、船舶工兵第二十三連隊(暁一六七四一部隊・長・大島詰男少佐)と協力して、西海岸の中頭郡北谷村付近に逆上陸を敢行したが、ほとんど全滅状態となる。

 五月中旬以降、残存者は首里戦線に参加、五月二十四日、与那原西方の宮城部落に移動。五月二十九日、大黒部落に移動、六月二日、工兵第二十四連隊に配属。

 (この間、第二中隊の乳井小隊は、三月八日、慶良間列島中の座間味島に転進、梅沢少佐の指揮にはいる。三月二十五日、同島に米軍上陸、播所山に集結して切り込み戦を展開。三月二十八日、小隊長乳井少佐戦死)

 以上がこの部隊の行動が概況だが、本道出身者で暁兵団員として戦死し、戦記係に写真を送ってきたのは、暁一六七四四部隊齋藤中隊の菊地長一郎軍曹(二十年六月八日午後三時、座間味島で自決。遺族は菊地レキさん=苫小牧市西弥町十二ノ一)と暁一六七四一部隊ロ隊の阿部輝雄軍曹(二十年五月三日戦死。遺族は阿部スエさん=千歳市朝日町八丁目)のふたり。手記をよせられたのは藤原さんの便せん二枚だけ。

 船舶工兵が、どんな戦闘をしたか、一般には知られていない。船舶工兵は、はじめ輸送を任務としていたが、陸軍は海軍、空軍たのむにたらずとして、船舶工兵をもって海上特別攻撃隊、別名、海上挺身(進)隊を新設した。これが陸軍の『海の特攻隊』である。

 第二十七海上挺身隊の小隊長川崎敬二さん(鹿児島玉竜高等学校教諭)は、極秘兵器(レ)について

 『(レ)は連絡艇の意味で、長さ五㍍、幅二㍍、ベニヤづくりのモーターボートに、自動車のエンジンをつけ、中型ドラムカン二つに黄色火薬百五十㌔をつめて船尾につむ。

 このボートのへさきに長さ約五㍍の鉄棒がついており、敵艦の横腹に付きあてると、反動でドラムカンが海に落ち、五㍍くらい沈んだところで爆発、敵艦を撃沈する仕組みになっていた。

 この(レ)と海軍の人間魚雷艇(ヨ)については、おそらく一人の生存者もゆるされず、いまもって、くわしい消息はわかっていない』

 といっている。

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