80と81 ゆうゆうとフロに 砲艦射撃のなかで

 山三四八○部隊の生還者は和田勢三(苫小牧市役所勤務・第三大隊本部)田中嘉一郎(苫小牧市山の手六四・村山隊)及川英孝(川上郡標茶町字阿歴内原野第四、村上隊)田岡作太郎(虻田郡字月浦一七、第二大隊本部(光井保正(十勝清水町御影、和田隊)三野優(上富良野町中央区五ノ二、笹原隊)曽根金生(夕張市鹿島一番地、第二大隊本部)馬場清(旭川市東八条二丁目、志田隊)道輪正雄(阿寒町新町、新増信夫=連隊段列)石塚光夫(札幌市北八東十三)西条幸一(札幌市北二十一東一、土門隊)北川成章(釧路市若松町四、土門隊)河本博(茨城県竜ケ崎町常盤電気製作所、会田隊)菅原勝雄(紋別市上渚滑)井村=旧姓鵜島=家寿男(函館市大縄町九八)笠松曹長(長万部)津田弘(上川郡比布中学校)田中武雄(小樽市緑町二三・小樽駅掌区)伊藤清晴(旭川市三条七丁目、いろは肉店)林忠男(札幌市北三西二十八)中川清勝(砂原村農業協同組合)角守(砂原局区内茅部郡砂原国保病院)小塚多美雄(美唄市落合緑ヶ丘)加藤勇(札幌市北六東八、連隊段列)竹内常吉(札幌市白石町北郷七○五)本間哲衛(岩内商工会議所会頭)以上二十六氏の所在が判明している。このうち、手記がよせられているのは和田、西条、河本、加藤、本間の五氏である。遺族、読者から砲兵隊の活躍をぜひたのむ、詳細を知りたい―との手紙や申し込みがきているが、資料不足で筆がすすまない。この戦記は十二月まで続くから、もう少し充実するのを待つことにする。

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山三四八一部隊(工兵第二十四連隊)の生還者は日野定男(広尾町東通り五丁目)高野直之(三笠市幌内住吉町四三七)伊坂重市(羽幌町築別炭鉱)の三氏以外、所在を確認していない。

 第三十回(四月三十日付)で高野手記をもとに、部隊行動の概況を発表したが、伊坂手記とあわせて、その詳細を書く。

 伊坂重市兵長は、第一中隊(長・江井全中尉=八戸市)であったから沖縄上陸後、山三四七四部隊(歩兵第二十二連隊)に指揮班として配属になり、石嶺、久得付近で陣地構築をやりその後、あちこちに転進、作業をつづけた。十月十日、読谷飛行場(北)で大空襲をうけ、分隊長・香川文夫軍曹(室蘭)とあやうく爆死をまぬがれた。

 十九年十二月、島尻郡高嶺村字大里部落、与座部落に移駐、大陣地構築をはじめた。

 伊坂兵長は、小紙博兵長、中村三郎上等兵(紋別)の三人で第一作業班を編成。第二作業班は木村義信兵長(美瑛)布施上等兵、フチヤク・ジュンフク一等兵(沖縄)第三作業班は阿部弥太郎兵長、渡辺正衛伍長(京極町・乙幹)赤星一等兵。二十年三月二十三日以降、敵の艦砲射撃が激化したので、伊坂兵長の第一中隊はじめ、二、三中隊はそれぞれのごうにはいり高野直之伍長のいる部隊本部も高嶺村役場のごうにはいった。

 四月一日、米軍が嘉手納海岸に上陸したが、工兵部隊は戦場へ出発せずゆうゆうと切り込み演習などをしていた。経理部からは四月、五月、六月分の給料の前払いがあって、なんとなくいい気分だったので、艦砲射撃のなかでフロにはいったり、軍歌をうたったり、大いに気勢をあげていた。

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