切り込み訓練は、部隊本部の太田締夫少尉(札幌・幹候出身)を教官に、梅沢喬太軍曹(札幌商業卒・幹候)が助教で行なわれていた。梅沢軍曹は、札商時代剣道部の選手で教官よりも技量は上であった。岡崎見習仕官や下士官など、大勢が参加し、訓練風景は、まるで学生の剣道大会のような元気さにあふれ梅沢軍曹の人柄がにじみでて、指導は親切丁寧であった。それというのも、開戦と同時に、第一中隊小隊長斎藤道博中尉(札幌)を隊長に七人編成の模範切り込み隊が中頭郡の敵陣を攻撃、生還ひとりの苦杯をなめていたからだ。
部隊本部の陣地は、岩石の山を掘り抜いてできている。爆弾が落ちても、内部にひびかない。そばの住民のごうも同様だった。さらに恵まれていたのは食糧である。敵上陸と同時に、製糖工場から大量の黒砂糖が運び込まれた。三人に二斗だる(三十六㍑)一本が割り当てられた。ごうの前の野天に、砂糖だるを小山のように積み上げた。また、本部事務室の机の下には、水アメの一斗かん(十八㍑)がおいてあって、当直者は割りバシで水アメをなめながら無線で
大本営発表を聞き、よく朝、上官に戦況を報告する。勤務はすこしも苦痛ではなかった。
米軍は、上等な紙のビラを、陣地付近に何回もばらまいた。ビラには、太平洋が戦艦とB29でおおわれた絵のうえに、
〈みなさん、あの艦砲射撃の音を聞いたでしょう。あれは、アメリカの兵力ほんの一部です。いまアメリカは、日本本土から近い沖縄を取ろうとしています。日本軍の将校は、いま、どうして逃げようかと相談をしています。だから、みなさんは日本のために戦う必要はありません〉
これにたいし、日本軍の宣伝ビラも、あちこちにはられた。
〈醜敵は遂に皇土沖縄に上陸し来たり。県民は一木一草に至るまで戦うべし。軍は御稑威(みいつ=こうごうしい威光・神霊の威力)のもと、善諜秘策誓って敵を撃滅せん 現地軍指令〉
また、高野兵長は、こんなウワサも耳にした。
〈友軍の潜水艦百隻が沖縄に向かいつつある。陸軍の攻撃と同時に敵艦も大半が撃沈されるので、この戦いは、秘密を守れば、かならず勝てる〉
ほかにも聞いた―という兵隊が、たくさんいた。
糸満沖は敵艦で、いっぱいだ。夜になると、将校はじめ兵隊は与座岳台上に登り、特攻機の活躍を見るのを楽しみにしていた。
ある夜、特攻機二機が敵艦へ突っ込んで行くのを見た。対空砲火もサーチライトも上がらず、敵艦隊は油断をしていたようだ。爆弾投下。駆逐艦の一隻は真っ二つになって、すぐ沈没、一隻は大火災を起こし、約十分後に沈んでいった。梅沢軍曹や高野伍長らは手をたたいて喜んだ。二機とも生還してゆく―
『よくやった』
見えない操縦士に手を振り、心から声援を送った。
また、肉薄攻撃の訓練用に、戦車の模型を作ってあったが、米軍機は、これを本物と思いこみ、しばしば爆撃して兵隊を笑わせた。楽しい思い出は、これぐらいのもので、その後、しだいに激烈な戦闘が工兵部隊のうえに迫ってきた。
戦記係から 七師団戦記・『ノモンハンの死闘』の予約出版受け付け中です。
戦記『ノモンハンの死闘』はまだ購入可能でしょうか?どちらに検索すればわからなくて、こちらにて失礼いたします。
古本屋さんでは購入可能のようですが、かなり高額です・・・
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=205022509
おそらくこちらだと思うのですが、都市圏にお住まいでしたら、
古本屋さんに直接聞いてみるのも良いかもしれません。
文章は当時のものをそのまま掲載しておりますので、
「ノモンハンの死闘」も現在は古書店以外では販売されていないと思われます。
こちらで検索してみたところ、たとえば札幌市図書館などでも貸出しているそうです。
あわせて、図書館の利用もご検討ください。
ご丁寧な返信ありがとうございます。図書館に問い合わせてみます。私の大叔父は梅沢軍曹の回に出てくる斎藤道博です。
工兵第24連隊第1中隊にいて、すぐに歩兵第22連隊に属したのですが、戦死した当時の仲間の名前がわかりません。
防衛省の史料閲覧室に行ったのですが、工兵第24連隊に関しては『多すぎるので書けなかった』歩兵第22連隊に関しては『軍旗が燃えるほどの苦戦で誰が所属していたか不明』というようなことが書いてありました。
国のために命をかけて戦ったはずの大叔父さんの名前も戦死時は中尉という地位であったのにもかかわらず、どこにも史料に残っていません。
もしかしたら調べ方が違うのかもしれませんが、戦死した当時の部隊員の名前の閲覧の仕方などアドバイスありましたら教えていただけたら幸せです。
長文に慣れておりませんので、わかりにくかったりしましたらすみません。
突然の私的な問い合わせ、まことに失礼いたします。
防衛省の史料閲覧室にもなかった親族の名前を発見しましたので、驚きコメントしました。
他にも斎藤道博に関する情報がありましたらどんな細かいことでも、ぜひ教えていただけたらと思います。
松崎様
「斎藤少尉 刀を抱き座ったまま 胸に散弾を受け絶命」
http://aaokinawa.s500.xrea.com/kiji161
こちらの記事はご覧になられたでしょうか。
斎藤道博(当時少尉)様の詳細が書かれた記事になります。
もし既にご覧でしたら申し訳ありません。
(斎藤様の最期が描写されています)
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今度、記事を書いた記者・清水幸一氏の奥さんの清水藤子さんにもなにか情報がないか
聞いてみたいと思います。
私は、このプロジェクトを手伝った北海道のただのしがない青年ですので、
どこまでお役に立てるかわかりませんが、
何か不明・必要な点などございましたら、遠慮なくコメントくだされば幸いです。
返信ありがとうございます。
斎藤少尉の回、読んでいませんでしたので、 教えて頂き 嬉しかったです。貴重な情報をありがとうございます。
私は中2の息子と小学3年の娘がいるのですが 拝読し、家族一同 衝撃をうけました 。
というのも、このネットを発見するまで、そもそも切り込み隊として戦死したとは知らなかったからです。
私たちの知っている大叔父さん(斎藤道博)の最後の話を書かせてください。
5月4日、アメリカ兵が海岸(場所は西原)にどうもいるようだから偵察に行こう。という話になり、大叔父さんの部下が見に行くと言うも、大叔父さんが『いや、危険だから私が自分1人で偵察に行く』と言った。部下の1人が『いや、そんなことはさせられません。』と言い出し、他の部下も『自分が行く 』『いや自分が行く』と言い出し始め、その言い合いに収集がつかなくなり、結局、『じゃあ、みんなで行こう』となった。ただ、衛生兵にたいしては『お前まで行って何かあったら大変だから、お前はここに残っていてくれ』と言って、衛生兵1人残してみんなで偵察に出た。翌日になっても帰ってこないので、衛生兵が海岸へ見に行くと、大叔父さんが、かっと目を開き、手には銃剣を地面に突き刺し、正座して海を見ていた。目が開いていたこともあり、『ご無事でしたか!!ご無事で良かったです!』と言って駆け寄ったが、すでに死んでいた。他の人たちも全滅していた。
この話は、30年ほど前に私の身内が沖縄戦没者慰霊のツアーに参加した時、たまたま衛生兵さんもそのツアーに参加していて、直接その衛生兵さんから大叔父さんの最後を聞いたものです。
とすると、布施一等兵が衛生兵となりますね。
その衛生兵さんの名前もわからなかったので、今回、この記事でわかったことは凄く嬉しいです。
今回、この記事で多くのとっかかりができました。
これでまた防衛省の資料閲覧室に行って、多方面から調べることができそうです。
私は慰霊のため、大叔父さんの最後をともにした仲間の名前を探しています。
前回の記事で大叔父さんの隊は大叔父さんを含め7人編成ということがわかりました。
1人は衛生兵の布施さんなのであと5人です。
防衛省の資料閲覧室のレファレンスによると、靖国神社の遊就館へ行ったら何かわかるかもと言われました。
今度行ってみる予定ですが、他にもこうしたら?ああしたら?というアドバイスのようなものがあったら教えてくださると嬉しいです。
また、大叔父さんの情報、工兵第24連隊第1中隊、歩兵第22連隊について情報があれば教えてください。
過去の記事も、これから大切に拝読させていただきます。
不勉強で恥ずかしいです。
長文も失礼いたします。