洞くつ内のまち 雑貨屋など店開き 日常生活をそっくり移す

 新垣部落から真栄平部落へ行こうと、藤沢軍曹がごうを出た時、初年兵時代の戦友山尾(札幌)に声をかけられら。彼は武兵団所属だったが、残留になったという。二人は、ごうにひきかえし、同年兵の大勝、小野寺(ともに札幌)小島(静内)藤本(門別)の安否を気づかい、つもる話や、これからのことなど、しみじみ語りあって別れた。

 真栄平の野病は、まだ開設されていなかった。しかし、真壁村の野病が今晩開設される―と聞き、すぐに出発した。

 真壁村の東北方五百㍍に、わずかに起伏する野原がある。そこに野病になっている自然洞(どう)穴の入り口があった。

 村人たちは、内部の整地、寝台製作にに懸命。衛生兵は資材整備と手術の準備に駆けまわっていた。ひびきをたててトラックが三、四台やってくる。

 『きた、きたッ!』

 村人たちの叫び。トラックが、きしんでとまった。どれもこれもつめこむだけつめこまれた負傷兵のやま。一瞬、なまなましい空気がただよい、むごたらしさに、一同ぼう然―

 『何をしているッ! 早くしろッ!』

 『担架ッ! 担架ッ!』

 『ぼんやりするなッ! 早く、早く・・・』

 衛生兵の怒声。負傷兵のうなり―血なまぐさい殺気ばしった空気にまきこまれ、衛生兵、村人たちがあわただしく、動き出す。ごう内から運び出される担架。つぎつぎと負傷兵を衛生兵がおろす。担架にのせ、ごう内へ運び込む。

 担架の両側に村人たちがつめかける。

 『こんなになって・・・かわいそうに・・・・』

 『ひどいけがだ・・・』

 涙をボロボロこぼすもの、声をあげて泣く婦人。輸送中に絶命した負傷兵の墓穴を掘るものなど、開設途中の真壁野病は、ひどい混雑だ。この戦闘のような収容がすんで、一同が落ちついたのは数時間後の夜中だった。

 〈ここは、出入り口が小さく、内部もせまい。収容力は百人程度―〉

と藤沢軍曹は推定し、朝方四時ごろ、与座の司令部へむかい、帰路についた。軍曹は

 〈真栄平部落の洞穴のほうが、内部も広く、小川も流れていて、野病としての利用度が高い―〉と思った。その真栄平洞穴には、六月三十日、雨宮師団長以下司令部の一部が入って玉砕した。

××  ××

 藤沢軍曹は五月中旬以降、第二十四師団第一野戦病院(長・安井二郎少佐・山三四八六部隊)に派遣された。

 軍曹の赴任した第一野病の洞穴は、新城部隊付近にあった。以前、山三四七六部隊(歩兵第八十九連隊)の陣地だったが、部隊が首里前線へ出動したあと、隅岡軍医中尉以下軍医位置、下士官三、看護婦十五、雑役婦十五で野病を開設。患者約二百人を収容していた。そこへ、総攻撃(五月四日)で負傷した新患者がどんどん後送されてくるようになった。

 患者収容所は、新城のほか富盛、照屋、東風平、新垣の各部落に設けられてあったが師団給水部、輜重隊の患者輸送は毎夕百人から百五十人。それが日ごとに増加するばかり。たちまち、新城以外の収容所は満員になった。

 師団軍医は、全島でも有数の広い洞穴・新城収容所に勤務員を増員、いそいで、収容力の増大をはかった。海上勤務隊の韓国人四十人、沖縄の防衛招集兵二十人、看護婦十人があらたに配属になった。

 新城村付近には、この野病の自然洞穴のほか、まちに近いところに、もう一カ所大きな洞穴があって、全村民がはいっていた。村役場、郵便局その他雑貨店など各商店が営業し、村の日常生活をそっくり、洞穴内に移しかえたような光景だった。

 そのころ、日本軍は、与座岳、八重瀬岳に排水の陣をかまえ、最後の決戦を計画していた。

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