馬 輸送上、最後の頼み 兵隊と生死をわかつ

 山三四七七部隊(第二十四師団制毒隊・長・五十嵐正二郎大尉)は、四月八日運玉森で切り込み戦を行ってから戦闘任務についていたが、四月末、翁長戦線の山三四七五部隊が苦戦し相当な戦死、戦傷者がでたからその収容にあたれ―と命令をうけた。

 五十嵐隊長以下全員、急造担架をつくる。担架のない者は背負って収容せよ―といわれ、真柳倶也伍長(室蘭市輪西町一八五)は戦友たちと戦場にのぞんだ。

 はじめて見るむごたらしい前線。戦死者、負傷者の数があまりにも多い。とても、全員を収容することは不可能だ。手あたりしだい、息をしている者から運ぶ。夜じゅう搬送して朝になった。運びきれずに残して後退した。

 ひきあげる途中で菊池上等兵(奥尻島青苗)が両手に被弾、野病へ行く途中で出血多量のため戦死した。

 五月二日、部隊は首里と運玉森の中間にある大名部落へ進出の命令をうけた。健康のすぐれない兵六人に高橋曹長(山形)をつけて残留員とし、五十嵐隊長はじめみんなで持てるだけのものを持って前進した。

 部隊段列長は坂本獣医曹長。馬車に弾薬、食糧その他戦闘に必要な物資のすべてをつみ本隊のあとにつづいて進む。

 三日前に新垣の馬小屋に艦砲の直撃をうけ、馬が四頭死んだ。残った三頭に民家(新垣、真栄平、国吉)から徴発した馬をあわせて馬車をひかせていた。そのうちの一頭は種馬で元気はいいが、兵隊を手こずらせる。

 とうとう大里の砂糖工場付近にさしかかったとき、あばれだして馬車もろとも三十㍍ほど下の川へ落ちてしまった。馬と馬車をひきあげるのに一時間かかった。

 そのあいだに本隊は先行してしまっていた。真柳伍長は連絡をとるため馬を走らせた。

 追いついたとき、本隊は東風平にいた。その夜、本隊はさらに先進し大名部落に到着。部隊段列は、夜じゅう行軍したが、大名につかないうちに朝になった。

 真柳伍長は、陣地らしい穴にはいってやすんだ。ノミがひどくてねむれない。

 馬は林のなかにつないでおいたが、一頭はタマにあたって死んでいた。かわりの馬をさがしに付近の部落へはいった。どこの部落でも、馬は、はなしがいになっていた。人なつかしさから寄ってくるので、すぐつかむことができた。

 部隊列段は、つぎの夜、大名についた。本隊は与那原―首里間の道路のコンクリート橋付近に穴を掘ってはいっていた。任務を達成したので馬を馬車からはなしてやったが、部隊から遠くへ行かない。

 大名橋のそばに民家が五、六軒。いずれも人がいない。馬小屋のなかに銃撃をうけた馬の死体が二つ。

 部隊の右となりに野砲第四十二連隊(山三四八○部隊)の一個中隊がいた。野砲中隊は一日に二、三回一斉砲撃をやる。大砲は三、四門あって、一門で二、三発撃つ。この砲撃が終わるか終わらないうちに、返礼のように敵の砲弾が飛んでくる。兵隊のかくれている穴はつぶれ、野砲隊からも制毒隊からも生きうめやら戦死者がでた。

 夜は照明弾。昼のように明るい。照明弾のからが落ちてきて危険だ。安保兵長(夕張)は五月十二日ごろ、これで戦死した。

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