花火 日本軍の降伏で 終戦を祝う米軍

六月下旬、米軍の大部隊が糸満街道を新垣、摩文仁方面にむかって南下してゆく。これに対し、工兵部隊の負傷兵をのぞく全員が切り込み戦を敢行した。

 高野伍長は負傷兵の手当てに専念しながら、悲壮な状況を見ていた。伍長にとって悲しいことは、自分の治療した負傷兵が、つぎつぎに出陣し、だれも帰ってこないことだった。

 福田重吉軍曹は沖縄兵一人をつれ、敵陣突破をはかったが敵に発見された。軍曹は沖縄兵を中隊に帰し、自分はそのまま敵陣におどり込んで戦死した。

 久野昌一軍医大尉(愛知県)は、切り込み隊の先頭に立ち、敵陣に突入したまま帰らなかった。指揮系統は、すでになくなり各自思い思いに、一身を捨てての切り込み戦を展開していた。

 六月二十七、八日ごろ、児玉連隊長は当番の山田伍長を切り込み戦に出したあと、戦車攻撃用地雷で自決、幹部全員も自決した―という高野伍長は情報を耳にし、部隊の最後を知った。

 そのとき生き残っていたのは石部一夫曹長(静岡県)小神外安、葛木幸作両上等兵ら三人であった。高野伍長は彼等とともに第三中隊のゴウを脱出、部隊本部の陣地へはいった。

 もの音ひとつしない。なつかしい児玉部隊長の声も、ここでふたたび聞くことはできない。地面いっぱいの白骨―医務室には看護婦たちの着物をきたままの白骨死体。谷藤兵長は、高野伍長のあててやった副木をつけたまま骨になっていた。よく見ると、白骨の死体は、全部銃をにぎっている。

 〈敵は毒ガスを使用したな。みんなが苦しさにたえかね、銃を持って出たところを一斉に攻撃されたに違いない〉

 高野伍長は戦死者のめい福を祈った。

× × × ×

 七月上旬、高野伍長は石部曹長や葛木上等兵と別れ、小神上等兵とともに大里を出て東風平のゴウへ移動。そこで球部隊の兵隊三人に出会った。三人のなかに病人がいたので、治療のため、一週間ほど滞在し、北上して首里に移動。さらに来たの中頭部へ進んだ。

 昼は砂糖キビ畑にかくれ、夜、雨にぬれて歩いた。伍長はピストル〈、〉上等兵は手りゆう弾を命の綱とし、米軍のカン詰めをひろったり、ぬすんだりして食べ、タマの穴や草木の根、岩石などにつまずきながら歩いて、夕方名も知らぬ山の上にでた。

 突然、遠く見降ろす米軍基地からワーッと歓声がひびいてきた。同時ににぎやかな花火が夜空にあがった。海上の軍艦やその他の船のうえからも花火が一斉にあがる。

 『なんだろう?』

 八月十五日、日本軍の無条件降伏を祝う米軍の終戦祝賀会とは知らず、ふたりは中頭郡に到着。出会った友軍から北上は危険であると教えられて南下、首里をすぎて豊見城付近の野砲陣地で民間人もまじる生き残りの一団二十三人と合流、共同生活をはじめたが、九月二十二日、さきに収容された日本兵の捜索隊に発見された。一同は自決、投降の二派にわかれ激論のすえ、高野伍長が代表となって米軍のジープに同乗。終戦を確認して、全員、石川第一収容所にはいり、高野伍長は戦闘行動を終えた。

戦記係から 『七師団戦記・ノモンハンの死闘』の予約出版を受け付け中です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です