安楽部隊か・・・必死に物資を運ぶ いまはすべて前線

 山三四八三部隊(輜重兵第二十四連隊・長・中村卯之助大佐)第二大隊(自動車大隊・長・服藤照近少佐=四国出身)第四中隊(長・鈴木茂中尉=柏崎出身)の戦闘を橘政敏少尉(帯広市西二南二ノ十九)の手記によってつづる。

 橘さんは十八年十一月一日、学徒出陣の大学卒業者三十数人と旭川第九部隊に転属。部隊ただひとりの幹部候補生として、東京の機甲整備学校に分遣になり、十九年八月、軍曹になった。このとき、原隊が満州から南方に移動した―と聞いた。

 十九年十二月末卒業と同時に見習士官任命。原隊が沖縄に行ったことを知らされ、鹿児島に集結。第十一期見習士官約七百人は各部隊に配属のうえ、飛行機の護衛で沖縄に向かう。

 二月十五日、焼土の那覇港到着。師団長雨宮中将から恩賜の酒をいただき、山三四八三部隊鈴木中隊に着任。この第四中隊は、橘見習士官が初年兵として入隊したところであり鈴木中尉は幹部候補生時代の教官だった。

 第一小隊長村中博少尉(札幌出身、北大卒)第二小隊橘見習士官、第三小隊長山田少尉(利尻礼文出身)。

 当時中隊は八重瀬岳に陣地があった。部隊本部は嘉手納にあった。その後三月上旬、部隊本部は八重瀬岳のふもとの富盛に移動。その周囲四㌔四方に各中隊でと布陣、陣地構築をはじめた。同時に、嘉手納方面からの他部隊の弾薬、糧●輸送をやっていた。

 三月二十三日から猛爆がつづき、四月一日、糸満沖に数百隻の敵艦がおしよせた。

 中隊は毎夜、島尻地区の各部隊に弾薬食糧を配分、与座岳、東風平方面から前線部隊に物資を輸送し、かえりは負傷者をはこんできた。

 四月二十六、七日ごろ、山兵団は首里前線に出動した。

 輜重隊は、首里前線へ物資を輸送する。全車両無灯火行進だ。無灯火で平均時速四十㌔の記録をもつ精鋭部隊だったが、連日の雨で車輪はうまるし、橋は破壊されている。橋を修理し、一台ごと引き網で引きあげて行進するので、行くのに十二時間もかかった。

 他部隊の兵隊は

 『輜重隊は一番らくな部隊だ。後方にいて輸送が任務、生命の危険はないからなあ・・・』

 という。知らないにもほどがある―とはらがたつ。

 すでに前線も後方もない。米軍は、偵察機で沖縄攻撃用の精密な航空地図をつくりあげ、夜間しかも軍艦からでも正確に射撃できるように測定してあった。

 輜重部隊の行動する道路は、完全に砲火網のなかにはいっている。とくに交差点、十字路は数十秒おきに砲弾が落下する。行くときなかった穴が、帰途には五、六十もあいている。一回の往復で直撃弾をうける車両が四台にもなった。

 一晩じゆうねむらないで、朝がた帰ってきたトラックは、その日のうちに整備される。パンクしたタイヤには、全部、手おしの空気いれでいれ、その夜、ふたたび出動する。これが、連日連夜くりかえされた。

 配給になる食糧は、日一日と量ががへり、飯ゴウの中ぶたにいっぱいの日がつづく。みんなクタクタに疲れていた。

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