ふたりの軍曹 きれいにヒゲそる あたった死の予感

 橘少尉はつくづく思う。

 (トラックという大きなものをもっているため、よその部隊より負担がよけいかかる。これが縁の下の力持ち、めだたない、つらい任務だ。ひたすら輸送に万全を期すことだけが生きがいなんだ)

 第二分隊長の小泉良治軍曹(旧姓山田)は少尉の札幌光星商業同級生で乙種幹部候補生札幌琴似出身だった。

 五月中旬のその日山田軍曹はヒゲをそって橘少尉のところへきた。

 『今夜、なんだか死ぬような気がするので、ヒゲもそったし、ふんどしもとりかえた。これから首里前線へ弾薬の輸送のために行く』

 『気をつけて行けよ』

 少尉に見送られた山田軍曹は、南風原の真の十字路で、敵砲弾の破片をうけ予言どおり戦死した。

 翌日、少尉は死体収容にでかけた。中学時代五カ年間、初年兵時代もいっしょで、少尉が着任したときは第二分隊長だった山田良治―

 (山田、いんねんというやつだ。安らかにねむれ、俺がねんごろに葬ってやるぞ・・・)

少尉は山田軍曹の遺体を八重瀬岳のふもとに埋葬した。学生時代からのことを思い出し、泣けて泣けてしかたがなかった。

××  ××

 五月三日の総攻撃に、第四中隊は野砲陣地へ行き十五りゆう砲弾をトラックにつみ、棚原北方まで行くよう命令をうけた。

 橘小隊は全車両に砲五門と弾薬をつみ、そのうえさらに円すい型爆雷を持って行ったが、首里前線につくと、敵弾がはげしく、とても目的地にはつけそうもない。待機していると、伝令がきた。

 『攻撃は失敗したから、すぐ後退せよ』

 命令のまま、朝がた七時ころ、グラマンに追われながらS陣地へ帰った。

 五月中旬、橘小隊はばん馬大隊長大橋少佐の指揮をうけ、弁ヶ岳方面に出動。

 五月二十日ころ、大橋大隊長米屋第一中隊長戦死の報告がはいった。将兵の死傷者が続出したが、歩兵におとらぬ勇敢な輜重隊、精鋭の輜重隊との評判がたかくなり、五月二十三日ころ、軍司令官から感謝状をもらった。これは輜重隊はじまって以来のことであった。

 中村部隊長は大変よろこび

 『もう、これでいつ死んでもいい』

 とまんぞくそうだった。そのころから、自動車大隊員にさかんに転属命令がくだった。

 郷司年春軍曹(浦幌町)以下数人の転属は、少尉にとって感無量なものがあった。

 軍曹は少尉の初年兵時代の班長だった。奥さんは浦幌で電話交換手をしているとのことで、その手紙をみんなに読んできかせてうらやましがらせていたが、郷司軍曹は、前線へ出発後まもなく戦死した―という話を耳にした。

 戦後、生還した橘さんは、浦幌のまちをおとずれ、郷司軍曹の奥さんをさがした。

 まじめだった郷司班長殿のみたまに心から祈りをささげ、未亡人と思い出ばなしをしたかった。だが、奥さんには会えず、いまだに、その消息は不明であるという。

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