輸卒 軍馬もなく徒歩で 兵器、夜を待っては運ぶ

 細田久雄曹長(函館市東雲町函館消防本部、警防課長)の手記から山三四八三部隊(輜重兵第二十四連隊)の行動をつづる―

××  ××

 細田曹長(当時軍曹)は、第二大隊(自動車大隊)第五中隊(長・小松保男中尉・山形酒田出身、二十年六月二十一日真栄平で戦死)に所属していた。

 第一小隊長近藤少尉(六月二十二日戦死・札幌)第二小隊長八幡少尉(六月二十一日真栄平で戦死・苫小牧)第三小隊長本間少尉(札幌)細田軍曹は第二小隊の分隊長だった。

 米軍上陸の四月一日夜、細田軍曹の分隊は、島尻軍東海岸の湊川に出動を命ぜられ、富盛の部隊本部を出発した。途中、地雷を施設してある―と指示されていたので用心しながら進み、湊川に到着した。

 海へそそぐ川の川岸一帯は、艦砲、空爆でめちゃめちゃ。すでに戦死傷者は一個所に集められていた。

ここに駐とんしていた部隊は海上挺身第二十八戦隊(球一九七六部隊)で加藤義夫軍曹(札幌市琴似町北八軒六二三)らがいた。加藤軍曹は、輜重隊第一大隊第一中隊(米屋隊)の伍長だったが、二十年三月二十二日第一大隊の下士官十余人とともに、第二十八戦隊に転属になったもので、この時は、戦友たちと特攻ボートの収容に大わらわだった。

 細田軍曹ら輜重隊の任務は、敵弾の破壊をまぬがれた特攻ボートを山中にかくす輸送にあたった。

 海上からの艦砲弾が激しくサク裂するなかで、決死的な作業をつづけ、ボートを積んだトラックを走らせた。途中、前線へ出動する歩兵部隊の長い列にあう。

 トラックを山のなかへとめ、ボートをおろしているとき、遠く西方の那覇海上では、特攻機を撃つ敵艦からのえい光弾で、夜空は真ッ赤。海面では、特攻機の体当たりで火災をおこした敵艦があかあかと燃え、艦首をあげて沈没してゆく光景が望見された。

 戦闘の進行につれ、八重瀬岳付近に貯蔵してある兵器弾薬の夜間輸送がはじまった。

 無灯火行進のため、トラックがミゾやがけ下に落ちたり、前の車に追突する事故が続出したが、一カ月ほどもすると、兵隊はやみのなかでも、ものが見えるようになり、事故はなくなった。

 昼間は、兵隊はゴウのなか、トラックは林やゴウのなかにかくし、敵機、敵弾をさけていた。

 輓(ばん)馬大隊の第一大隊は、自動車大隊(第二大隊)のようなわけにはいかず、初戦で軍馬の大半を戦死させてしまった。これらの軍馬は昭和十六年七月、関東大演習のとき、北海道、東北地方から兵隊といっしょに召集され、満州にわたり、その後沖縄へ移動したものであった。

 軍馬を失った第一大隊は第二大隊が戦線へ輸送した弾薬を、さらに前線へはこぶ歩兵部隊となって活躍したため、戦死者が激増した。

 さらに、大橋第一大隊長は、みずから部下を指揮し、首里北方の弁ケ岳で生還を期さない切り込み戦を敢行、全員肉弾となって散った。

 『輜重輸送が兵隊ならば、電信柱に花が咲く』 

 日清、日露戦以降、日本国内で女子供がくちずさんだザレ歌であるが、ノモンハン戦に輜重隊小隊長で参戦した鈴木直太郎少尉(士幌新田小学校長)は

 『最前線のザンゴウ内は、考えるほどタマをうける率はすくないが、後方陣地との中間地帯は激しいものです』と語っていた。二千七百人中生還四十一人―竹ヤリ戦争時代の常識では考えられない数字である。

 輜重隊戦没者各位のみたまに尊敬と感謝の心をこめ、ここにごめい福を祈る。

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