通信隊 戦況、しだいに悪化 切り込みで大半失う

 山三四八二部隊(九七五部隊・第二十四師団通信隊)についてわかっていることは、隊長が保科清一郎大尉、無線隊長宮川中尉、有線第一小隊長根本少尉、第二小隊長石黒准尉。生還者としては伊藤徳五郎さん(札幌市月寒西一条七丁目)と藤川政義さん(旭川市新旭川中の島)から連絡をうけている。

 この部隊は十九年八月五日那覇上陸。二十年三月二十三日から、与座の師団司令部を基点として、第三十二軍と師団内各部隊間の通信にあたっていた。

 四月二十四日から山兵団司令部とともに、津嘉山、首里に前進。六月六日、宇江城に後退。六月二十三日以降、通信連絡がとだえた。

 生還者の藤川さんが、戦死した佐薙励兵長の留守宅にあてた手紙によって、この部隊の行動をつづる。

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 部隊の総員は約五百四十人。現在生存者は九人。

 五月五日の山兵団総攻撃で歩兵部隊の大半を失い、以後、戦況はしだいに悪化した。

 五月下旬、米軍は首里の第三十二軍司令部へ迫ってきたので、六月上旬、司令部は島尻地区摩文仁に後退した。

 保科隊は真栄平の新垣部隊にさがり、通信任務についていた。

 六月十八日、米軍はわが第一線を突破し、新垣付近にも姿を現したので、通信隊の保科部隊も戦闘部隊となって戦闘に参加した。

 十八日、十九日と敵の猛攻をうけ、死傷者が続出。二十日、藤川分隊に切り込み戦敢行の命令がくだった。

 藤川兵長は佐薙上等兵はじめ部下八人をつれ、二十日午後十一時、陣地を出発した。

 切り込み隊は、陣地前、四百㍍の地点で敵の迫撃砲の火網のなかにふみこみ、敵の軽迫撃砲、重、軽機関銃の集中攻撃をうけ、戦死二人、重軽傷者五人をだし、切り込みは不成功に終わった。

 藤川分隊長は宍戸上等兵に対し重軽傷者をつれ陣地へ後退するよう命令した。そのとき、佐薙上等兵は頭部破片創、腹部貫通の重傷をうけていた。

 藤川分隊長は左足に破片創をうけていたが、任務遂行のため、ひとりで敵状偵察に出発した。

 二十一日朝四時、偵察を終えた藤川分隊長が陣地に帰ったとき、佐薙上等兵はベッドに横たわり、元気そうに笑っていた。

 十一時ごろ、陣地は敵戦車の攻撃をうけた。午後一時ごろ、藤川兵長は伝令の任務を命ぜられ、真栄平の部隊本部へ出発することになった。

 佐薙上等兵を見舞うと、上等兵は兵長の手をにぎり

 『足の傷はだいじょうぶですか。途中、どうか気をつけて行ってください。成功を祈ります』

 からだも弱わり、元気もなくなっていた。兵長は負傷した三人の戦友に元気をだすよう声をかけて出発した。

 午後七時ころ、兵長が部隊本部から帰ってみると、佐薙上等兵は息をひきとったあとだった。

 軍医は

 『天皇陛下万歳をとなえ、藤川兵長によろしく伝えてほしいといっていた。最後には、うすれかける意識で、しきりに”おかあさん”と母をよびながら息をひきとった』

 といっていた。

 二十二日、通信隊は戦友の大半を失って真栄平の本部に終結。藤川兵長は二十五日、切り込み戦に成功、敵軍後方の山の中にはいり、十一月十八日、宣撫班の勧告で戦闘行動を終えた。

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