沖縄の土 最後の突撃を敢行 わずか30人の木口隊

 山三四七四部隊第十一中隊(長・木口恒好大尉)の総攻撃(五月四日)には、長浜慶治上等兵(赤平市茂尻旭町五条四号二舎)は、負傷のため参加していない。連隊資料その他聞き書きによると―。

 四日午前五時、木口中隊長は中隊の全員を集めた。配属機関銃隊をいれ、はじめ約二百三十人いた隊員は大半が戦死、負傷し、戦闘できる者は、もう三十一人より残っていなかった。

 二十四歳の木口中隊長は総攻撃の命令を一同につたえ

 『自分と一緒に、みんなで戦死した友のところへ行こう、沖縄の土になろう』

 と訓示した。指揮班長山西准尉が

 『隊長殿、やりますかッ!』と声をかければ木口大尉は『おおッ!』と勇ましく答え、全員で三回、おたけびをあげ、陣地を飛び出した。

 木口中隊長は小銃をにぎり、工藤衛生兵は中隊長の軍刀をふりかざし、全員突撃隊員となって進んだ。

 兵器は小銃と手りゆう弾だけ。木口中隊の最後を飾る死の突撃であった。

 連隊資料によると

 〈軍の企画せる総攻撃にあたり、山三四七四部隊は中央突進隊となり、山三四七五隊、山三四七六部隊の中央のうしろを前進するよう命ぜられ、その一部をもって翁長西側台地にある敵を駆逐して、右第一線連隊山三四七六部隊の攻撃に協力するよう命ぜられたるをもって、第十一中隊(木口隊)長に命じ、攻撃をせしむ。砲兵の突撃支援射撃に膚接して第十一中隊長木口大尉以下全員帰還せず〉

 木口中隊は約百二十㍍進んだ。そこに敵の第一線陣地があった。敵は攻撃してくる木口隊の姿を見て、あわてふためいて後退した。磯端軍曹は、じたんだふんでくやしがり

 『失敗したッ! てき弾筒や機関銃をもってくればよかったッ!』突撃隊は、なおも敵の第二、第三陣地へ突進、全員玉砕した。

 あとからつづいた部隊が、木口中隊の占領地を足ががりとして敵を攻撃し、この付近の敵陣地を木口山と名付けた。

 木口隊の三十一人に軍司令官感状が贈られ二階級特進の栄誉が与えられた。名前の判明している人々はつぎのとおりである。

 木口恒好大尉、山西武久准尉、磯端宝紀軍曹(上川郡)早坂芳治上(道内)北川栄上(雨竜)工藤常好衛生兵(函館)本間祐弘上(小樽)伊藤行雄上(道内)伊藤弘上(森町)氏家武雄上(亀田)大黒光雄上(道内)田中勇弘上(函館)土谷芳治兵(松前)荒谷正治郎上(道内)諏訪正衛生兵(函館)渡辺上(小樽)佐藤上(小樽)沖縄初年兵二人。その他十二人は氏名不詳。

 ここに『木口隊中隊歌』(木口恒好大尉作詞、前原信勝軍医中尉作曲)をかかげ、中隊戦没者のごめい福を祈る。

 一、明るく清く正しかる 希望と意志に迷ふなし くらげなす国若きとき 

   蒼人草(あおひとくさ)に残りなく 聖(ひじり)の道を国民(くにた

   み)にさとし賜いし神宿る。

 二、わが大君につかえよと 生みたまいたる母(たらちね)を 尊くおうが

   み謝しまつる いま神兵と選ばれて 北辺の鎮めゆるむなし。(以下略)

 作曲をした前原信勝軍医は、現在、沖縄那覇市壷屋町八○番地で病院を経営、沖縄テレビのタレントとして、軽妙な時事解説その他で沖縄の人気を拍しておられる。

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