迎えにくる 重傷兵は置き去り 動ける者がゴウを移る

 山三四七五部隊第二(志村)大隊主力の二千余人は、五月四日総攻撃の時、十数人しか残っていなかった―と撫養富司さん(深川市納内町)は書いている。

 大隊が死守する前田部落の一四六高地は、米軍に完全に包囲され、ゴウの入り口から爆雷を投げこまれる。これを決死隊が手りゅう弾で追いはらうのが、精いっぱいの抵抗だった。

 ゴウ内は負傷兵のうめき声でみち、気違いになって大声でわめく者もいる。食糧も水もない。睡眠をとっていないので、みんなやせて、目ばかりギヨロギヨロ光らせている。

 軍服には、血と爆薬のにおいがしみつき、ズボンのひさにも、シャツの腹のところにも、土砂がずっしりたまっている。数日間爆風をあびつづけたので、いつのまにかたまったらしい。

 戦闘中、一睡もしていないが眠むいとは思わない。たべものより水がほしい。みんなフラフラしている。ひとりで奮戦していた和田重機関銃中隊の倉内兵長(納内町)が戦死した夜〈第二大隊は後方へ転進、連隊本部へ合流すべし〉という命令をうけた。

 ゴウの入り口は砲弾で破壊され、ぬけ出るには、元気のいい者に引っぱり出してもらわなければならなかった。置きざりにしなければならない重傷者が、”連れて行ってくれ”と泣き叫ぶ―

 撫養兵長は新出田三一等兵から水を飲ませてもらい、河野上等兵と協力し、負傷した久保一等兵をゴウから連れだした。入り口付近は、五日前に着いたときとは一変し戦死死体で足の踏み場もない。フワフワとやわらかい戦死体を踏みつけて歩いた。

 近くの山上から敵が機関銃で撃ちまくる。ふせて進むが、どこまで行っても友軍の戦死体がつづいている。

 水田そばにゴウがあり、撫養、河野、久保の三人がはいると、なかに先行した数人の戦友たちがいた。めずらしく食糧のかん詰めが相当数保存されていた。

 撫養兵長、河野上等兵は、水田へはって行き、水をのんだ。腹いっぱい飲んだころ、変んなくさみと妙な味がすることに気がついた。見ると、水たまりのなかに死体がある。あわててはきだしたが、あとのまつり。

 このゴウにもながくはおれない。久保一等兵ら負傷兵を残し、撫養、河野ほか二人が一組みとなって、沢地の水田地帯を経塚部落方向へむかい後退を開始した。

 五十㍍ほど進んだとき、照明弾があがり、沢の両側の山上から機関銃を撃ってきた。逃げ場がない。息をころしてふせていた。やがて銃撃がやんだ。はって進む。百㍍ほどくると、仲間部落へ行く道路にでた。ふたたび銃撃をあびる。見上げると、進行方向の両側の山上には、敵兵がずらっとならんで下を見張っている。ふせたまま動けない。

 まわりからうめき声がきこえる。三十人ほどの戦死体は志村大隊の戦友たちー重傷の六人ほどが、あつこちでうめいている。転進命令でここまできてやられたのだ。

 『水をくれ』

 『たのむから、いっしょに連れて行ってくれッ・・・』

 重傷者が泣きわめきながらとりすがる。連れてゆくことはできない。撫養兵長は、重傷者の水筒をとり、水田の水をくんで持たせた。

 『いまにむかえにくるから、元気を出して待っていろ』

 みんながそうしたように重傷者にウソをいい、自分にウソをいい、四人は、ここをあとに後退への道を進んだ―

 十二月一日、タイムス観光主催に巡拝団が沖縄へ行く。遺骨となった戦友を本国へ連れもどしてやろうという悲願を胸に、参加者のなかの戦友たちは、その日を待ちわびている。

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