敗走記 行く先、行く先で敵襲 就労に自決する同僚

 米軍の幕舎を荒らしてきたから、攻撃されるぞ―と、うわさしていたとおり、翌日敵襲をうけた。そこで、夜をまち、撫養兵長ら一行四十人は前田部落のゴウめざして移動―水田のなかを北上し、道路わきの谷間にさしかかる。五月五日転進しようとして攻撃をうけた友軍の戦死体が、谷間に白骨となって積みかさなっていた。

 無情感をかみしめ、前田のゴウに到着する。ここで国頭郡へ脱出しゲリラ戦をやろう―ということになった。毎日、道路偵察を出す。奥村伍長と成田義雄上等兵は出たまま帰らなかった。

 夜、一行は前田ゴウから西原部落へ向かう。後方でサク裂音がした。ついてこれなくなった負傷兵が

自決したのだった。

 あたりに友軍の鉄帽子やくつなどが散乱している。西原部落だ―敵をなやました友軍のかつての奮戦ぶりが、ありありとよみがえってくる。

 夜があけてきた。台上に敵の幕舎がずらっとならんでいる。目的のゴウをやっとみつける。ところが、せまくて小さい。からだをかくすのがやっとだ。一行は三カ所のゴウに分散する。

 午前九時ころ、敵兵三人が現われ、自動小銃を撃ちこむ。全員息をころしていた。敵は、日本兵はいない―と思ったのか、つぎのゴウへ移って銃撃。さぐりをいれて、さらに、つぎのゴウへ―。その間、撫養兵長は戦友の無事を祈りつづけた。

 夜になった。ふたたび地図をたよりに北上する。腹がへれば畑のサツマ芋、キャベツを取って食べる。東海岸の路上を敵のトラックが続けざまに走っているのや、幕舎、工場のような建て物も見える。

 一行は新垣部落に到着した。全員がはいれる大きなゴウを見つける。入り口が四カ所。これなら敵襲にも大丈夫だ。

 朝を迎える。南国の太陽がギラギラまぶしい。松のみどり、セミのなき声―のどかなながめだ。ゴウから五百㍍ほど前方に四十むねほどの敵の幕舎がある。ここも安全ではなかった。

 三日間、襲撃を受けながらもこのゴウにいたが、次第に危険がせまってきた。国頭へ行こう―一行は夜になるのを待って、島の中央部の山上を一列縦隊になって進んだ。

 午前三時ころ、中城村と宜野湾村のさかいにつく。島を中心に東西の海上は艦隊の電光で海のなかに都会ができたようなにぎやかさだ。それをみながら南から北へ道路をさがってゆく。

 あと百㍍ほどで大きな道路にでるというとき、先頭の兵隊がピアノ線にふれた。いきなり、前方高地でサーチライトが光り、四十数人の全員が明るみにさらされた。重機関銃が火をふく。一行は夢中で後退した。かくれるゴウがない。雑木林にはいり、岩のかげにかくれた。

 志村大隊長、日原小隊の一行三十余人は、岩山の頂上にかくれ、撫養分隊五人は、その五十㍍ほど下の岩かげに、さらに、重機関銃の兵隊たちは、撫養分隊の下にかくれた。

 じっとしていると、太陽があつい。シラミでかゆい。兵隊がシラミをとってくれ―という。いそいでとれ―兵長が許可した。みんなはうれしそうに、シラミとりをはじめた。

 午前七時ころである。シラミとりを終わり、兵長は部下に仮眠を命じた。

 『みんな、ねてもいいぞ。帯剣はしなくてもいいが、かならず軍服をきて鉄帽をかぶり、手りゅう弾を持て』

 一時間ほど眠った。人の気配に目をひらいた。三十人ほどの敵兵が、すぐ目の前を歩いている。彼等は岩山をのぼってゆく。

 〈みつからねばいいが・・・〉

 息をのみ、祈るような一瞬だった。

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