脱出 音を立てずに行動 必死でつづく負傷兵

渡会小隊長は

『わが第一大隊は、四方を敵にかこまれ、孤立している。今夜、敵の包囲から脱出するが、重傷者はそのまま。歩ける者は部隊と行動をともにする。音のするものは、全部つつむか、音がでないように準備して、出発命令を待て』

小隊長は去り、夜になった。佐藤上等兵は、前方のくぼ地に中原、高安と集合した。三人で一個分隊である。中隊全員でも二十人たらず、従って一個大隊といっても、戦闘開始前の一個小隊にみたない人数だった。

あちこちから兵隊が集まってきた。衛生兵に付きそわれて列にくわわるものは、まだいい。小銃にすがってくるもの、軍刀をつえにしたもの、自決用に手渡された手りゆう弾をかくし、置きざりにされるのをいやがってはってくるものなど、自力では到底、脱出不可能な者が数多くまじっていた。

一同は、大隊本部員からひとりずつ、三、四㍍の間隔をおいて出発した。あたりの山は全部敵が占領している。無音。音をたてずに行動する。

負傷者は、必死になってついてくるが、しだいに置きざりにされる。衛生兵以外は、小銃、弾薬をもっている。負傷兵の手をひいてやることはできない。

つい、五、六時間まえまでは生死をともにと、信頼しあって戦った仲間だ。その相手が、傷ついた自分をふり捨ててゆく―〈負傷したとはいえ、いま、手をかしてやりさえすれば、貴重な命を失わなくてすむ者ばかりなのだ。このまま置きざりにすれば、死ぬにきまっている。それを見殺しにしてゆかねばならぬのだ。許してくれ、ここは戦場なのだ・・・。一時間後には、俺自身も同じ運命におかれるかもしれないのだ〉

佐藤上等兵は、負傷兵のほうを見ないようにして行進の足を早めた。

照明弾があがるたびにふせ、前後の兵隊に気をくばりながら進んだ。山林地帯をでた。前を行く兵隊の姿が見えなくなった。ふせたのかもしれない―と思い、しばらく待ってみたが現われない。うしろの高安一等兵に腕をふって前進の合図を送り前の兵隊の位置まで進んでみた。前方は川だ。川へ踏みこむ。まえに伊藤大隊長、工藤中隊長はじめ数人の兵隊が川を渡っていた。

うしろを見た。高安、中原がついてきていない。歩みをとめて待ち、あともどりしてみた。いない。川の中でうろうろした。

突然、右側の山から川をめがけて赤い火の尾をひく機銃弾が飛んできた。川ぶちのアシが勢いよく燃え上がる。炎で川一面が明るい。大隊長の叫び―

『各自、自由行動をとれッ! 集合場所は高峯だ! 』

指揮班の佐藤厚兵長が、元気よく“行くぞ”と叫んで川から陸へ飛びあがり、左側の石垣のある民家へ駆けこんで行った。数人の兵が、これにつづく。赤い火のタマが走る兵に集中する。佐藤上等兵も、部下のことは気になったが、いまはわが身をかくさねばならぬ。走った、“ヒュン”・・・“ヒュン”・・・火のタマが飛んでくる。夢中で川から陸へ、石垣のなかへすべりこんだ。

そのとき、だれか、銃の床尾板に強く頭をぶつけた者。―“やられた”と叫ぶ。敵弾と思ったらしい。それを石垣のなかへひっぱりこんだ。軍医だ。

敵中なので、艦砲その他の砲弾が飛んでこないだけ楽だった。

畑、丘、山を越え、樹木のある谷間につく。友軍陣地らしかった。しだいに敵砲弾のサク裂が激しくなった。樹木の枝に砲弾があたり、不気味な音をたてる。夜があけてきた。工兵隊陣地だ。穴を見つけてもぐりこむ。渡会小隊長が人員を調べにきた。

 

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